観音様への信仰が深く、自らも観音様のように慕われた仁子だったが、自身が幼少時に苦労したこともあり、子どもたちは、自立できるように厳しく育てた。子どものいたずらが過ぎて怒った時の仁子は、鬼のように怖い存在だったという。しかし、愛情は深く、宏基は「経営が順調で、工場事故も少なく、家族が健康なのは母・仁子の見えざる祈りの力があったと感じている」という。

 日清食品が食品メーカーとして大きく成長し、1985年、75歳の百福は宏基に社長の座を譲り、会長となった。仁子は変わらず百福を支え、きげんが悪い時も「私は観音様の心で行こう」と言い聞かせていたという。四国八十八カ所巡りや、日清食品の全工場に自分がまつった観音様へのお参りをしながら、百福の目の病気を気にして、目に効く寺へもお参りした。これらはいつも大阪からの日帰りで、夜は玄関先で帰宅する夫を迎えていたというのだから驚きだ。

 大阪府池田市にある「カップヌードルミュージアム 大阪池田」と、横浜市の「カップヌードルミュージアム 横浜」では現在、仁子の生涯をたどる特別企画展「チキンラーメンの女房 安藤仁子展」が開かれている(2019年3月31日まで)。18年11月下旬、大阪池田の特別展を訪ねると、子どもからお年寄りまで、多くの人が仁子の写真やゆかりの品などに見入っていた。

 仁子が84歳の時の貴重な映像も展示されていた。穏やかな笑みを浮かべた仁子が、家族総出でチキンラーメンの製造に明け暮れた日々を振り返っていた。午前2時に就寝し、午前5時に起きる生活だったが「けっこう私は楽しんでいましたけど」と懐かしそうに語る。夫の百福のことは「『日本一になる』と言ってくれて、それを信じておりました。何も心配ありません」と話す。

「観音さまの仁子さん」のように、大きな心と笑顔で困難を乗り越えていく福ちゃんと、愚直に自分が信じる道を突き進む萬平さんの物語はまだまだ続く。今後の展開にも注目したい。(ライター・南文枝)