――長きにわたり拘束される中で、絶望を感じたりはしませんでしたか。
身動きができないときや、どう考えてもこれは不可能だと思ったときにはかなり腹が立って、ドアを蹴りまくりました。「(話し声を)そんなに聞かせたくないなら、鼓膜を破って耳を潰してくれ。それでいいじゃないか。一生耳が聞こえなくても、家族と話すことができなくても、俺は帰りたい。お前たちは音を聞かれたくないんだろう。お前たちも俺もそれを望んでいるだろう」とかなり言いましたが、無視されました。そういうことはありました。
――絶望するようなことはありませんでしたか。
ドアを蹴りまくったときは、絶望でしたね。これは不可能だ、と。それは何回もありました。
――相手組織について、人数や年代、リーダーの容姿など詳細に教えてください。
人数は最初の民家では5人、時々連絡役に来る人がいたり、動画や写真を撮るときに人が来たり。大きな施設に関しては地下1階、地上5階で3階部分に上に吹き抜けているところがあって、日光浴ができるんです。そこに目隠しで連れていかれ、そこからさらに2つフロアがあり、4階、5階があるかなり大きな施設でおそらく100人単位の囚人がいるのではと思います。そこに食事を配ったりする人数はかなりの印象です。相当な人数がいるんだろうなという印象があります。目隠しをされて歩くときは下を見ながら歩くのですが、彼らの靴などを見ても、かなり人がいるなという印象でした。年代は17歳という者がいました。
リーダーの容姿ですが、顔は俳優の松平健のような顔をしていて、勝手にケンと呼んでいました。彼はイラクに行ったことがあり、クエートに近い刑務所と基地の複合施設で働いていたと。2003年に米軍侵攻の前に義勇兵として入り、4月9日の政権崩壊の前に通訳として雇われて、2004年だけそこで働いたと。
組織ですが、フッラース・アル・ディーンに移されたと言われる時期にトルキスタンの施設にいるんです。その間に身柄を売り渡されたと言われていますが、そういったことはないんですけど、組織が看板ごと変えて他の組織にまるごと移ったということはありえます。かなり大きな組織で、それがまるごとフッラース・アル・ディーンに入ったというのは分からないんですが、このあたりはそれ以上のことは分からないです。彼ら自身、ずっとヌスラとは明言せず、初期はかなり強く否定していました。彼らに対して、「どういったシリアの政治体制にしたいか」と聞いたとき、「それはシャリーアに基づく国造りだ」という人がいたり、「シャリーアだけでは不十分だ」という人もいたり。「カリフが必要か」を聞くと、「カリフというのはすべてのイスラム教徒がカリフの再来を求めるものだと。だが、すべてのイスラム教徒が望むようなカリフがシリアの中に出てくるとは思わないから反対だ」と。あれだけのイスラム系組織でその言い方はちょっとないんじゃないかなという気がしています。
ヌスラであると言っている囚人が一人だけいました。一晩だけパキスタン人と名乗る人と一緒にいたことがありますが、彼らに対しては自分は別の組織だと言っていたと。ヌスラがヌスラを捕まえて、ごまかすということはあり得るのかなと。私の大きな組織の印象は他の組織から人を引き受けて対価を得ているのではないかなという印象でした。なので、イスラム国の戦闘員がいるのは、イスラム国の戦闘員というのはアレッポのかなり東の方にいるので、そこまで大きな組織ではないんじゃないかなと……。イスラム国の戦闘員が話しているのが聞こえましたが、彼はトルキスタン出身の30歳くらいで、自由シリア軍に捕まって引き離されたと言っていました。そこを考えると、他の組織から引き受けているのではないかなと思っています。
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