プロとして成功することを夢見ながらも、若くして指導者としての資質を開花させた物腰の柔らかな青年は、自身を「僕には競技者としての“殺し屋の本能”は無かったが、人の性格や感情を読み取る能力、そしてコミュニケーションに必要な“言葉”があった」と分析する。時に厳しく接し、時には道化役に徹し明るい雰囲気を醸成する彼の存在が、自分に厳しすぎた大坂の心を、解きほぐしたのは間違いない。
その“心”に加え、今季の大坂の覚醒を促したもうひとつの大きな変化が“体”である。左右に走らされても振れることのないフィジカルと軽快なフットワーク、そして長い打ち合いにも息のあがらぬスタミナは、いずれも今季の大坂が獲得した大きな武器だ。
まだ少女の柔らかさを残した昨年までの大坂の身体を、アスリートのそれへと改造したのは、ストレングス&コンディショニングコーチのアブドゥル・シラー。彼もまた、かつてセリーナのチームスタッフとして手腕を振るった、女王育成のレシピを知る者だ。
シラーはこの夏、トレーニングで大坂を鍛えると同時に、食事面を中心とした日々の過ごし方を「教育」したと言った。いかなる栄養素をどのタイミングで摂るべきか? 大会中はどのような食事を心がけるべきか……?
それらの知識をはじめ、フットワークなどの動きやフィジカル面など、大坂には「まだ伸び代が山程ある」とシラーは言う。グランドスラム優勝者にして、発展途上の未完の大器――それがこの20歳のUSオープン優勝者の、最大の魅力でもある。
新女王へと本格的に名乗りをあげた今、周囲が彼女に向ける目は変わり、ライバルたちによる包囲網も狭まれていくだろう。それは、追う者から追われる者への移行期に直面する、ある種の通過儀礼だと言える。それでも彼女は、自分が踏破した跡ではなく、これから切り開く道に目を向けているはずだ。
2年前に「テニスプレーヤーとしての目標」を尋ねた時、彼女は「世界1位と、可能な限り多くのグランドスラムで優勝すること」と断言した。大坂なおみが目指す場所は、まだまだ、地平の彼方にある。(文・内田暁)