かつては四系統の都電で賑わった渋谷駅前停留所も、都電を後継した都バスのターミナルになっていた。発車を待つ34系統金杉橋行きの6270は、290両の大所帯を誇った6000型の最終増備車の一両だった。(撮影/諸河久:1969年1月10日)
かつては四系統の都電で賑わった渋谷駅前停留所も、都電を後継した都バスのターミナルになっていた。発車を待つ34系統金杉橋行きの6270は、290両の大所帯を誇った6000型の最終増備車の一両だった。(撮影/諸河久:1969年1月10日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も「都電ナンバーワン」の視点で展望した車両編として、最大両数の形式と最小両数の形式、最新の形式と最古の形式を紹介しよう。

【56年前に銀座通りを走るレアな高性能車など、当時の都電写真はこちら】

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 今回は、いつにも増してマニアックな話になるかもしれないので、ご容赦いただきたい。

 東京都電は1963年3月に旅客車両数が1192両を数えて、戦後のピークを迎えている。今回の車両編では、この年の形式別車両数や車両諸元表を基準にして、ナンバーワン的見地から都電車両のプロフィールを解説しよう。

■最大両数の形式は…

 冒頭の写真は、1969年1月の渋谷駅前に停車する34系統金杉橋行きの6000型だ。この数年で激変した渋谷駅周辺だが、およそ半世紀前、渋谷のシンボルだった「東急文化会館」の壁面にかかる映画のディスプレイが昭和の風情を感じさせる。屋上にあったプラネタリウムでご記憶の読者も多いだろう。現在、ここには渋谷ヒカリエがそびえるが、ほかにも高層ビルが林立し、まさに激変の中心地となっている。

 さて、この6000型は、1000両を越える都電の中で最大の290両数を誇った。

 戦災で焼失した旧3000型の戦災復旧の名目で、1947年に誕生したのが6000型であった。6000型は旧3000型が使用していたD10型台車などを流用し、全長12.2m・全幅2.21m・全高3.4mの半鋼製車体を新造したものだった。初号車となった6001は新日国工業製で、1947年6月に登場している。戦災復旧名義の6000型は、1947年から1949年までの三年間にわたり増備が続き、6001~6174の174両が登場した。

 1950年からは新造車となり、D16型台車を装備した6175~6241の67両が就役。1年置いた1952年には、最終型として車体側面窓を10個から9個に設計変更。コロ軸受、オイルダンパー付きのD17型台車を用いた6242~6290の49両が追加新造され、その合計は290両に達した。
 
 多くの都電で賑わった渋谷駅前停留所だったが、前年の9月までに廃止された6・9・10系統に替わった代行バスの停留所に変貌を遂げていた。渋谷駅前に細々と出入りしていた34系統も1969年10月に廃止され、渋谷駅前から都電の姿が消え去った。

 写真の6270は背景の都バス色と同系の淡いクリーム色にエンジ色の帯だったが、晩年になると1962年に登場した7500型と同じ色調に変更された。6000型の最終増備である1952年度第二次車6267~6290の一両として、日本車輛本店で製造。就役は1953年1月で、神明町→錦糸堀→広尾→大久保と転属して、1970年3月に廃車された。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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