前日の降雪も止み、春陽の中をマイカー通勤の車列に翻弄されながら終着県庁前に向かう新潟交通のモハ14。前年から始まったワンマン運転用のバックミラーを装備している。東関屋~県庁前(撮影/諸河久:1983年3月7日)
前日の降雪も止み、春陽の中をマイカー通勤の車列に翻弄されながら終着県庁前に向かう新潟交通のモハ14。前年から始まったワンマン運転用のバックミラーを装備している。東関屋~県庁前(撮影/諸河久:1983年3月7日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。昨年に引き続き夏休み特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。第3回は甲信越と北関東で活躍した新潟交通、松本電鉄浅間線、茨城交通水浜線の路面電車にスポットを当てた。

【新潟、長野、茨城を走った路面電車と、かつての美しい街並みの写真はこちら(計7枚)】

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 高度経済成長期の1960年代、全国的に路面電車は追いやられた。

 地方都市に押し寄せたモータリゼーションと過疎化が進んだ影響が大きいが、新潟を走った新潟交通は1999年まで残存した。だが、それもすでに21年前のこと。廃止されて久しい。往時の作品から、各都市で活躍した路面電車の足跡を辿ってみよう。

■「土手下電車」と呼ばれた新潟交通

 国鉄(現JR)新潟駅から北側に位置する信濃川を渡り、西進すると新潟県の官庁街が展望できる。その南側には新潟総鎮守「白山神社」の杜が広がっている。昭和期には白山神社大鳥居の門前に新潟交通県庁前駅が所在し、新潟県唯一の路面電車として賑わっていた。
 
 新潟交通の冒頭写真は、県道(はくさん通り)に敷設された単線軌道を県庁前に向かう電車で、朝の通勤時間に対応するため後部に旧小田急のクハ45型を二両増結している。新潟交通の走る狭隘な電車道はマイカー通勤の車列で溢れており、電車は低速運転を強いられていた。

 新潟交通のルーツは、新潟電鉄が1933年に県庁前~燕35800mを軌間1067mm、全線単線で開業したことに始まる。このうち、県庁前~東関屋(鉄軌分岐点)2200mは県道に併用軌道を敷設し、途中に6か所の停留所(1944年に廃止)を設けて、軌道法により運行していた。新潟電鉄は戦時中に新潟合同自動車と合併し、新潟交通が発足している。

味わいのある県庁前駅本屋を背景に発車を待つ燕行きに充当されたクハ34+モハ11。撮影日が祝祭日だったため、日章旗を掲揚している。(撮影/諸河久:1967年5月3日)
味わいのある県庁前駅本屋を背景に発車を待つ燕行きに充当されたクハ34+モハ11。撮影日が祝祭日だったため、日章旗を掲揚している。(撮影/諸河久:1967年5月3日)

 次のカットは瀟洒なたたずまいの県庁前駅本屋を背景に発車を待つ燕行きの電車。撮影した筆者の背後には「白山神社」の大鳥居がそびえていた。先頭車は戦時下の1944年に日本鉄道自動車が製造したクハ34型。当初は両側運転台だったが、1964年に片側運転台仕様に改造された。県庁前駅は1985年6月、西側に隣接した新潟県庁の移転にともなって白山前駅に改称されている。

 最後のカットが、東関屋~燕の鉄道線を走る燕行き下り電車。写真のクハ37型は路面区間用の救助網を備えており、新潟鐵工所が1934年に製造した国鉄キハ41000型気動車がその前身。1952年に国鉄から譲渡され、新潟交通の一員に加わった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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1999年4月に全線廃止…