戦後拡幅された水戸駅前の目抜き通り(国道51号線)を大洗に向かう水浜線の電車。水戸駅前~上水戸が部分廃止される直前の訪問だった。郵便局前~水戸駅前(撮影/諸河久:1965年6月6日)
戦後拡幅された水戸駅前の目抜き通り(国道51号線)を大洗に向かう水浜線の電車。水戸駅前~上水戸が部分廃止される直前の訪問だった。郵便局前~水戸駅前(撮影/諸河久:1965年6月6日)

■磯へ通った茨城交通水浜線

 民謡「磯節」で知られる茨城県の磯浜・大洗には、国鉄(現JR)水戸駅前から茨城交通水浜線の路面電車が通っていた。茨城交通の前身である水浜電車は景勝地である磯浜と水戸を結ぶ計画で、1922年に浜田~磯浜の開業を皮切りに路線を水戸市内に伸ばし、1930年までに袴塚~湊20600mの全線を開業している。全線単線で軌間は1067mm、電車線電圧は600Vだった。戦時中の国策合併で、湊鉄道、茨城鉄道と合併して茨城交通水浜線となった。戦時中には袴塚の終点を茨城線の上水戸に付替え、大洗~湊を休止している。戦後の復興期には水戸市民の足として活躍し、上水戸~大洗18000mで運行されていた。

 水浜線の冒頭写真は、水戸駅前の国道51号線上に敷設された併用軌道を走る大洗行きの電車。国鉄(現JR)水戸駅と水戸駅前停留所は、画面の背後を左に曲がったところに所在した。電車と並んで「マツダT1500型」三輪トラックが共演する昭和時代の一コマとなった。

 写真の138は水浜線最後の新造車で1960年新潟鐵工所製。水浜線の根幹である水戸駅前~上水戸が廃止される5日前の訪問だったので、各電車の横腹には「長い間お世話になりました 上水戸~水戸駅前廃止」の大看板が吊るされていた。

愛好者が「浜田のSカーブ」と呼んだクランク状の急カーブを大洗行きの旧型車が走り去った。本五町目~浜田(撮影/諸河久:1965年10月4日)
愛好者が「浜田のSカーブ」と呼んだクランク状の急カーブを大洗行きの旧型車が走り去った。本五町目~浜田(撮影/諸河久:1965年10月4日)

 次のカットは本町通りにあった通称「浜田のSカーブ」を走る大洗行きの電車。本一町目から浜田にかけて本町通りは水戸城下の南東に位置し、江戸期から下市商店街として繁盛してきた。訪問時は狭隘な電車道の両側に商店が軒を連ねていた(水浜線廃止後道路は拡幅され、商店街は「ハミングロード513」の愛称で呼ばれている)。

 画面左奥に本五町目停留所があり、電車は急カーブに車輪を軋ませながら大洗に向かった。写真の125は水浜線初のボギー車で、1929年梅鉢鉄工所製。木造車体に鋼板を張った「ニセスチールカー」だった。1965年6月の路線縮小後は、戦後の新造車を仙台市電に売却したため、戦前生れの旧型車が水戸駅前~大洗の残存区間で、翌1966年6月の全廃まで稼働した。

 新潟、松本、水戸の路面電車に共通しているのが、単線で敷設されたことだった。複線で敷設された大都市の路面電車でも、モータリゼーションの進捗で割を食ったのだから、単線運転で輸送力の限られた地方都市の路面電車は1970年代を迎えることなく姿を消して行った。

■撮影:1983年3月7日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

AERAオンライン限定記事

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら