流線形時代に生まれた1200型の車体を延伸改造したのが1500型で、乗車定員が64名から96名に増加した。錦糸堀車庫に全車46両が配置され、25・29・38系統で1971年まで使用された。浅間前(撮影/諸河久:1964年6月21日)
流線形時代に生まれた1200型の車体を延伸改造したのが1500型で、乗車定員が64名から96名に増加した。錦糸堀車庫に全車46両が配置され、25・29・38系統で1971年まで使用された。浅間前(撮影/諸河久:1964年6月21日)

戦火に消えた幻の小松川車庫

 浅間前から西荒川に向かう都電で旧中川を渡ると、行政区画が江東から江戸川に変わる。下り坂を左に緩くカーブして1952年まで新町と呼称された小松川三丁目停留所に到着する。周囲は工場地帯の真っただ中で、写真のように都電の踏切に相対する停留所が設置され、多くの乗客で賑わった。

 小松川三丁目から小松川四丁目(旧称小松川)の間には城東電軌から引継いだ小松川車庫があり、1942年に東京市編入後は城東車庫となった。この城東車庫は1945年3月10日の東京大空襲で在庫した34両の都電と共に焼失している。戦後も復旧されることなく、車庫機能を錦糸堀車庫に移管して廃止された。

周辺を工場に囲まれた生活感溢れる小松川三丁目停留所は、都電の踏切を挟んで相対に設置されていた。(撮影/諸河久:1964年6月21日)
周辺を工場に囲まれた生活感溢れる小松川三丁目停留所は、都電の踏切を挟んで相対に設置されていた。(撮影/諸河久:1964年6月21日)

 小松川線をモチーフにした都電関連の記事を読むと、車庫は西荒川に向かって右側にあったらしい、という曖昧な記述が散見される。今回、幻となった小松川車庫の正確な所在地を解明するために検証を始めた。その結果、以下のような事実が得られ、車庫は左側に所在したことを確信した。

 糸口となったのが、大先輩の宮松金次郎氏が1932年に寄稿された雑誌「鐡道」36・37号「城東電車」の記事だ。閲覧可能な最古の調査報告資料で、下記に抜粋すると、

『全線中割合に数多い橋梁の中で一寸渡り答えのある橋を渡りますと間もなく「小松川」、左手に車庫と変電所があります。』(原文のママ)とあり、宮松氏は車庫と変電所の所在位置を小松川停留所の手前左側と記述されている。

 もう一つの手がかりとして、城東電軌時代の地図を調査した。「江戸川区立図書館/デジタルアーカイブ」にアクセスしたところ、戦前の「江戸川区全図」がヒットした。

「荒川区全図(1932年)」から抜粋した小松川周辺図。城東電軌小松川車庫の位置と線形が判読できる。(出典/江戸川区立図書館 デジタルアーカイブ)
「荒川区全図(1932年)」から抜粋した小松川周辺図。城東電軌小松川車庫の位置と線形が判読できる。(出典/江戸川区立図書館 デジタルアーカイブ)

 この図が「江戸川区全図(1932年)」から小松川付近の抜粋で、懸案になっていた小松川車庫の正確な位置と線形が判明した。これによると、車庫は西荒川に向かう小松川線の左側(地図では北側)に位置し、入出庫線は西荒川方面に接続されていた。

方向幕に小松川車庫前と掲示した城東電気軌道の70型。1929年の汽車製造製で、市電編入後30型37となったが、東京大空襲時に城東車庫に改称されたこの地で焼失した。小松川車庫(撮影/宮松金次郎:1932年頃)
方向幕に小松川車庫前と掲示した城東電気軌道の70型。1929年の汽車製造製で、市電編入後30型37となったが、東京大空襲時に城東車庫に改称されたこの地で焼失した。小松川車庫(撮影/宮松金次郎:1932年頃)

 次の写真が、前掲の江戸川区全図と同じ1932年頃の小松川車庫の全景で、宮松金次郎氏の作品を拝借した。このカットは西荒川側から新町方向を写しており、画面左側に小松川線が写っている。画面右奥には木造の矩形検修庫があり、妻部には「城」をデザインした城東電気軌道の社紋が貼付されていた。

 最後の写真が1964年の訪問時に撮影した旧小松川(城東)車庫跡と旧城東電軌の変電所と思しき建物を左手に見て、終点西荒川に走る25系統の都電。かなり傷んだコンクリート製の建造物で、戦火にも耐えた城東電軌の遺構の一つと推定したが、いかがだろう。

破損して傾いたビューゲルで西荒川に向かう25系統の都電。画面右側が旧城東車庫の跡地と思われ、コンクリートの建物は旧変電所ではないかと推察する。小松川三丁目~小松川四丁目(撮影/諸河久:1964年6月21日)
破損して傾いたビューゲルで西荒川に向かう25系統の都電。画面右側が旧城東車庫の跡地と思われ、コンクリートの建物は旧変電所ではないかと推察する。小松川三丁目~小松川四丁目(撮影/諸河久:1964年6月21日)

 小松川線の水神森~西荒川は1972年の全廃に先立ち、1968年9月に廃止された。

「この界隈から乗り換えなしで、神田や日比谷の繁華街に出掛ける格好の乗り物だった」と、都電は沿線の人々の伝説として今に語り継がれている。

■撮影:1964年12月19日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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