「0メートル地帯を行く都電」のフレーズに相応しい旧中川を専用橋で渡る25系統須田町行きの都電。小松川三丁目~浅間前 (撮影/諸河久:1964年12月19日)
「0メートル地帯を行く都電」のフレーズに相応しい旧中川を専用橋で渡る25系統須田町行きの都電。小松川三丁目~浅間前 (撮影/諸河久:1964年12月19日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は城東電気軌道(以下城東電軌)から引継いだ小松川線の中川専用橋と、その周辺の情景を紹介しよう。

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 川面に映る電車を見るだけで、どこかゆったりとした時間が流れているように見えるかもしれない。もちろん現在では見ることができない東京の光景の一つだが、その静謐な印象と異なって、写真からは当時の「音」と「臭い」を呼び起こす。

 25系統が走る小松川線(錦糸堀~西荒川 3600m)の歴史は、2019年10月5日の本コラムで既報している。前回は終点の西荒川停留所の新旧対比を紹介したが、今回は西荒川の手前、旧中川に架かる中川専用橋を渡る都電と亀戸九丁目から続く専用軌道区間の浅間前(せんげんまえ)停留所や小松川三丁目停留所周辺の話題を綴ろう。

旧中川に架橋された中川専用橋の風景

 冒頭の写真は旧中川に架かる中川専用橋を渡る25系統須田町行きの都電。都電の専用橋はこの他に、荒川線の高戸橋橋梁、砂町線の竪川橋梁、信濃町線の中央線跨線橋があるが、約80mの川幅に6橋梁、5橋脚を擁する中川専用橋が図抜けた規模の橋梁だった。

 埼玉県の幸手や杉戸を流れる古利根川を上流とする旧中川は、最下流のこの辺りでは天井川となり、橋桁すれすれまでに川面が迫る「江東0メートル地帯」を象徴する景観だった。筆者が旧中川畔を訪れた1964年当時、河川の汚染は深刻で、上流の古利根の清流とは対極的な異臭を放つ汚水の流れに閉口した覚えがある。

望遠レンズが描写する勾配と曲線軌道のパースペクティブ。往時の小松川線は路面電車ファンを魅了するフォトジェニックな路線だった。小松川三丁目~浅間前 (撮影/諸河久:1964年12月19日)
望遠レンズが描写する勾配と曲線軌道のパースペクティブ。往時の小松川線は路面電車ファンを魅了するフォトジェニックな路線だった。小松川三丁目~浅間前 (撮影/諸河久:1964年12月19日)

 次のカットを見てほしい。旧中川の西岸にあたる浅間前方向から専用橋を渡り終えて、水面より低い地平に勾配を下る25系統日比谷公園行の都電を捉えた一コマだ。アサヒペンタックスSVにタクマー200mmF3.5レンズを装着し、軌道のパースペクティブを強調した望遠レンズならではの描写となった。

「亀戸浅間神社」のご参詣最寄り下車駅だったのが浅間前停留所で、写真の右端画面外の踏切に連なる道が参道だった。亀戸浅間神社は霊峰富士山の守護神・木花咲那比売が祭神で、現在の社殿は震災復興後の1934年に再建され、1945年3月の東京大空襲からも延焼を免れたことから、火伏の神として信仰を集めている。

 境内には城東電軌の遺物として1999年に亀戸九丁目町会から寄贈された「大正時代に作られたイギリス製のレールです」と掲示されたレールを展示しているが、当該レールには「37A 1962」の鋳造印があり、戦後の国産レールではないかとの疑問が残る。

 画面左端には錦糸堀方面への折返し分岐が写っている。終点の西荒川まで900mに満たない浅間前に折返し分岐が設置されたのは、この先の旧中川が増水して西荒川までの運行が不能になった時の折返し運転に備えたもの、と推察した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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