四谷見附橋上に設置された四谷見附停留所を発車して新宿駅前に向かう11系統の都電。拡幅前の新宿通りが画面奥に続いている。 (撮影/諸河久:1967年9月17日)
四谷見附橋上に設置された四谷見附停留所を発車して新宿駅前に向かう11系統の都電。拡幅前の新宿通りが画面奥に続いている。 (撮影/諸河久:1967年9月17日)
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 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は新宿通り(甲州街道)と外濠通りが交差する交通の要衝「四谷見附」を行き交う都電の話題を紹介しよう。

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 四谷見附は江戸期から交通の要衝で、交差点を東西に向かう新宿通りと南北に横切る外濠通りにはそれぞれ都電新宿線と牛込線が敷設されていた。

 四谷見附交差点には3系統、10系統、11系統、12系統と四系統の都電が行き交い、国鉄(現JR)中央線四ツ谷駅、営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線四ツ谷駅への乗換客も加わり、四谷見附の停留所は多くの乗客に利用された。

四谷見附橋上に設置された停留所

 冒頭の写真は国鉄(現JR)四ツ谷駅を跨線する四谷見附橋の橋上に設置された新宿線四谷見附停留所で発車を待つ11系統新宿駅前行きの都電。画面手前が麹町方向で、画面奥が新宿方向になる。先行する新宿駅前行きの都電が画面の左右を横切る牛込線との交差部に差しかかるところだ。

 新宿線は1903年に東京市街鉄道(街鉄線)として開業。交差する牛込線は東京電気鉄道(外濠線)として1905年に開業している。開業当初の新宿線は、外濠に沿って建設された甲武鉄道(後年国鉄→JR)中央線四ツ谷ステーションと外濠を跨線するため、迂回ルートを強いられていた。

市営以前の東京鉄道会社が1907年に発行した「東京市内電車案内図」の四谷見附界隈。旧街鉄線の新宿線と旧外濠線の牛込線との路線配置が良くわかる。(所蔵/諸河久)
市営以前の東京鉄道会社が1907年に発行した「東京市内電車案内図」の四谷見附界隈。旧街鉄線の新宿線と旧外濠線の牛込線との路線配置が良くわかる。(所蔵/諸河久)

 掲載の路線図は1907年に発行された「東京市内電車案内図」からの抜粋で、当時の新宿線と牛込線の路線配置が良くわかる。これによると、麹町からやって来た新宿線の路面電車は四谷御門跡の鈎形になった石垣の間を抜け、その先の築堤上を進んで中央線と外濠を跨線していた。さらに突き当たった外濠通りを左折して牛込線に合流し、四谷見附停留所に到着。ここを発車するとすぐに右折して新宿通りに入り、四谷塩町(現四谷三丁目)方面に向かっていた。

 1905年に日吉堂から刊行された「外濠電車唱歌」(中川柳涯 作歌/深谷白川 作曲)の第34番には「本村町も早過ぎて 四谷見附に来て見れば 街鉄電車と共用の 線路はいとゞ煩はし」とあり、街鉄線と外濠線が軌道を共用した様子が唄われている(本村町は1943年に本塩町に改称)。

 路面電車が市営時代に入った1913年10月、四ツ谷駅の新宿方に鋼鉄アーチ構造でネオバロック様式の「四谷見附橋」が竣工。全長37mの橋上に敷設された新宿線は鉤型の旧ルートから直進する形で、中央線と外濠を跨線するバイパス路線になった。

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