いつも笑顔で頭の回転が速い橋本は、経営者たちに重宝がられた。ゴルフや会食を共にすれば、おのずと業界の事情にも通じてくる。誰と誰が仲が良いか、あの会社はどんなことで困っているか。様々な情報が入ってくる。だが、それはそれ、これはこれ。プログラムが書けるわけでも財務が分かるわけでもない。ただ憧れるだけだった。

 1981年、三重県鈴鹿市で3人きょうだいの末っ子に生まれた。父は旭化成の工場の研究者。社宅で育ち、「早く結婚してお母さんになる」と思っていた。高校生の時、母から「一度は東京に行きなさい」と勧められた。母は社宅暮らしが気詰まりだったようだ。それもあって武蔵野女子大学(現武蔵野大学)に進む。当時も「しばらくOLをして結婚」と考えていた。

 だが大学を卒業した2004年は就職氷河期の真っただ中。「しばらくOL」が簡単ではなかった。友達は髪を黒く染めリクルートスーツを着て、たった一つの内定をもらうのに何十社も訪問した。個性が消え、みんな同じ顔になっていく。

(何のために?)

 橋本は両親に言った。

「私には就活、無理みたい」

 大学を卒業してから1年間、アルバイトをしながら考えた。

「働くってどういうことだろう」

 二人の兄は大学を出て、商社と銀行に就職した。友達も皆、働いている。アルバイトでは収入も安定しない。焦りが募る。新卒でも難しい正社員。「第二新卒」という言葉も珍しかった当時、門戸はさらに狭くなる。

 一方、正社員と違って売り手市場だったのが派遣社員。橋本が目をつけたのは企業の受付だった。接客のバイトをしていたので、これなら自分にもできそうだ。「働く場所が大企業」というのもいい。早速、新宿西口の派遣会社で登録を済ませた。

(敬称略)(ジャーナリスト・大西康之)

AERA 2021年9月6日号より抜粋