批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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生権力(せいけんりょく)という言葉がある。フランスの哲学者フーコーの概念で、人間を家畜のように捉える権力を意味する。たとえば税制を変えれば出生率も変わるが、そのようにして集団を「管理」するのが生権力である。
生権力の働きは、非人称で政治的に中立なふりをしてくるので抵抗が難しい。だからこそ警戒が必要だというのが常識だったが、コロナ禍でその歯止めは吹き飛んだ。
しかも現在台頭しつつある生権力は、感染拡大防止という「絶対善」とGPSのような監視技術に結びついているため、はるかに強力である。韓国や台湾では初期からスマホの位置情報で感染者の行動を監視している。欧州も始めている。
ビッグデータの利用はさらに多くの国で行われている。米国ではスマホ監視により集会が確認され警察が出動したと伝えられる。位置情報は究極のプライバシーだし、集会がなければ政治的自由もない。数カ月前ならいずれも非難の大合唱が起こったはずだが、いま異議を唱える声はほとんどない。世界はコロナの恐怖に駆り立てられ、自由や人権についての議論をかなぐり捨てつつある。
人類は残念ながら、生き残るためには家畜になってもいいと判断したようだ。緊急なのでやむなしとの声もあろうが、問題は二つある。一つはコロナ禍の出口が見えないこと。日本でも緊急事態宣言が発令され、感染拡大のため接触の8割削減が必要だといわれている。しかしウイルスが完全に消えることはない。いつ監視は終わるのか。
そしてもう一つはコロナ禍後の社会のヴィジョンがほとんど語られないことだ。コロナは人類全体を滅ぼすほどのウイルスではない。ほとんどのひとは生き残る。そのときどんな社会を残すかも考えるべきである。いまマスコミでは命か経済かと選択を迫る議論が多い。でも本当の選択は「現在の恐怖」と「未来の社会」のあいだにもある。こんな監視社会の実績を未来に残していいのか。
人間は確かに動物である。だから動物を管理するように管理すれば感染は防げる。でも同時に人間は動物では「ない」。そのことの意味を、絶対忘れてはならない。
※AERA 2020年4月20日号