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「困った人々の心に明るさをともす」 中村医師が亡くなった同僚に誓った生き方

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古田大輔AERA
2018年6月16日、福岡市早良区の西南学院大学でアフガンでの活動を報告する中村哲医師 (c)朝日新聞社

2018年6月16日、福岡市早良区の西南学院大学でアフガンでの活動を報告する中村哲医師 (c)朝日新聞社

通水工事から約3年後、2009年4月のスランプール平野(上)と通水工事以前(下)。中村医師は00年のアフガンの大旱魃を受け、水を確保するために井戸を掘り、03年からは灌漑用水路の建設にも邁進、約1万6500ヘクタールもの土地を農地に蘇らせた(撮影/古田大輔)

通水工事から約3年後、2009年4月のスランプール平野(上)と通水工事以前(下)。中村医師は00年のアフガンの大旱魃を受け、水を確保するために井戸を掘り、03年からは灌漑用水路の建設にも邁進、約1万6500ヘクタールもの土地を農地に蘇らせた(撮影/古田大輔)

 中村哲医師がアフガニスタンで銃撃され死亡した。活動は医療に限らず、井戸掘りでの水の確保、農業用水路の設計にまで及んだ。中村医師を突き動かしたものとは何だったのか。AERA 2019年12月16日号から。

※【「不平等に対する復讐」 中村哲医師が人生をアフガニスタンに捧げた理由】よりつづく

*  *  *
 2000年、アフガニスタンは大旱魃(かんばつ)に見舞われた。1200万人が被害を受け、400万人が飢餓状態となった。当時、ペシャワール会はアフガンとパキスタンに5カ所の診療所を持ち、160人の職員(うち日本人は5人)がいた。年間18万人を診療していたとはいえ、国際医療NGOとしては中小規模、予算は1億円で、ギリギリだった。それでも中村医師は、医療よりも先に飲料水を確保するため、「井戸を掘る」という新たな活動方針を決めた。

【写真】通水工事から約3年後、2009年4月のスランプール平野

 同時期に、アルカイダを匿うタリバン政権に対して国連制裁が発動され、援助団体は次々と撤退した。01年9月にはアメリカ同時多発テロが起こり、アフガン空爆が行われた。

 人々が最も助けを必要としているときに、アフガンには救いの手は差し伸べられず、代わりにミサイルが降ってきた。

「誰も行かないなら、我々が行く。誰もやらないなら、我々がやる」が、ペシャワール会の精神だ。中村医師は逆に援助の規模を広げた。井戸では足りないからと水路を作り始めた。資金援助を呼びかけるために日本に帰国すると、空爆を支持する政府に異を唱え、「今のアフガンの問題は政治や軍事ではなく、旱魃と飢餓だ」と訴えた。

 灌漑(かんがい)施設を築く「緑の大地計画」は難航した。アフガンにもペシャワール会にも、最新の土木技術と豊富な資金はない。

 帰国した際、1790年に完成して現在も稼働中の故郷の山田堰を研究した。江戸時代の伝統的な工法で作られ、大がかりな機材がなくても水を引くことができる。現地の人々とともに、地道に汗を流して少しずつ水路を延ばした。

 自らも設計に携わったと聞き、「水路の設計なんて、どこで勉強したんですか」と聞くと、「計算も必要だし、高校数学から教科書で勉強し直しました」と照れくさそうに話した。


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