明治政府は武力を背景に琉球藩を廃止し、沖縄県を設置。これにより、約450年間にわたる琉球王国は幕を閉じ、旧国王は東京移住を命じられた。琉球王国の政治や文化の中心で国王一家の住まいでもあった首里城は、その後、旧日本軍(本鎮台分遣隊)の兵舎として使用された時期もあったが、やがて「空き家」状態になった。

 1912(明治45)年、首里城内に小学校(当時尋常高等小学校)が建てられると、荒廃した正殿が倒壊すると危険との判断から取り壊しが検討された。この動きを止めたのが、東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)たちだ。1923年に沖縄で文化調査を行っていた伊東らは、正殿の取り壊しが間近に予定されていることを知り、内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。この電報が届き、取り壊しは寸前で回避された。

 当時、文化財保護法は制定されておらず、城は1897年制定の古社寺保存法の対象外だった。このため、伊東たちは正殿の背後に沖縄神社を新たに建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。

 その後、正殿は国宝に指定。1929年制定の国宝保存法に基づき国の責任で保全されるようになった。しかし、1945年の沖縄戦で焼失。戦後、58年に守礼門が復元され、86年には国が国営公園整備事業として首里城の復元を決定した。

 このとき、奈良文化財研究所所長の職にあった鈴木さんは、木造建築の専門家として再び首里城復元に関与することになった。

■復元には木材調達が困難か

 復元に役立ったのは、文化庁が戦前に修復した際の資料だった。ただ、残されていたのは沖縄神社の拝殿として修復した際の図面だったため、建物内部の構造や内装に関してはいっさい不明。正殿の特徴である鮮やかな朱色の塗装の形跡すら残されていなかった。

 このため復元に際しては、琉球大学の高良倉吉名誉教授らが資料や考証の収集に尽力。日本各地の木造建築の保存や復元に詳しい鈴木さんも助言した。92年に正殿などが完成した後も、今年2月に首里城全体の整備が完了するまで年2回は沖縄に通い続けた鈴木さんは、首里城の文化的価値についてこう話す。

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「30年間、俺は何をやってきたんだろう…」