10月31日、焼けて崩れかけている首里城正殿(c)朝日新聞社
10月31日、焼けて崩れかけている首里城正殿(c)朝日新聞社
1991年、建物の復元が進む那覇の首里城。中央上の建物の中で「正殿」を建設している。(c)朝日新聞社
1991年、建物の復元が進む那覇の首里城。中央上の建物の中で「正殿」を建設している。(c)朝日新聞社

 火災で正殿などが焼失した沖縄の首里城。長年にわたる復元事業にかかわった、日本の木造建築の権威に話を聞いた。

【写真】1991年、建物の復元が進んでいた首里城の空撮はこちら

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 1972年の日本復帰を直前に控えた沖縄・首里。琉球大学(当時)の敷地内の一角に掘られた2本のトレンチ(発掘溝)を見守る関係者から歓声が上がった。首里城の中心的建物である正殿跡が確認されたのだ。

「これが、首里城復元を決定づけた瞬間でした」

 建築史家で元奈良文化財研究所所長の鈴木嘉吉さん(90、奈良県在住)は、文化庁建造物課の調査官だった当時を、つい昨日のことのように振り返った。

■戦後もズタズタに刻まれていた

 鈴木さんは首里城復元の可能性を探るため、総理府(当時)の要請で現地調査を担当。沖縄の日本復帰に伴い、県民のシンボル的存在である首里城を何とか復元したい、という沖縄の人たちの願いをサポートする役割を担った。

 ただ当時、首里城の敷地は琉球大学のキャンパスとして使用され、高台のエリアには自治体の水道タンクも設置されていた。城跡の面影はなく、「首里城は戦後もズタズタに刻まれていた」ような状態だったと鈴木さんは述懐する。既に鉄筋コンクリートの校舎が幾棟も建てられている敷地で、正殿の遺構を確認できるのか、という懸念がぬぐえなかったという。

 ところが、たまたま広場になっていた場所を掘ると、運よく遺構が見つかったのだ。

「ごく浅い地層で首尾よく遺構が確認できたのは予想外でした。沖縄の関係者も非常に喜んで、何とか復元したいという希望、機運が一気に高まりました」(鈴木さん)

 正殿は焼失によって建て替えられるたび、規模が大きくなっていることなども発掘調査でわかった。鈴木さんはその後、文化庁退職後も約30年間にわたる首里城復元事業にかかわることになる。

 首里城の変遷をたどると、琉球・沖縄と日本の関係が鮮やかに浮かぶ。

■首里城の運命変えた「琉球処分」

 首里城の運命を最初に大きく変えたのは琉球処分(1872~1879年)だ。

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渡辺豪

渡辺豪

ニュース週刊誌『AERA』記者。毎日新聞、沖縄タイムス記者を経てフリー。著書に『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)など。毎日新聞で「沖縄論壇時評」を連載中(2017年~)。沖縄論考サイトOKIRON/オキロンのコア・エディター。沖縄以外のことも幅広く取材・執筆します。

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約450年間にわたる琉球王国が幕を閉じた