真田幸村(左)と源義経(イラスト/森ゆきなつ)
真田幸村(左)と源義経(イラスト/森ゆきなつ)

 32のテーマごとに、日本の歴史を彩った魅力的な人物ふたりが47都道府県の代表として登場する『歴史人物ケンミンバトル』(朝日新聞出版)。「戦上手な武将」では、京都府ゆかりの源義経と長野県ゆかりの真田幸村が激突。さあ、どちらに軍配を上げる?

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■平氏を滅ぼした「戦の天才」――源義経

 源義経は、平安時代の末期、源氏と平氏という2大武士勢力が争うなか、彗星のごとく現れた「戦の天才」だ。伝説では、幼いころを過ごした鞍馬の山で、天狗たちに戦を学んだとされている。

 兄の頼朝から平氏討伐を命じられた義経は、険しい崖を馬に乗って駆け下り奇襲をかけるなど、誰も思いつかない独創的な戦法で平氏の軍勢をつぎつぎに打ち負かしていった。

 1185年の壇の浦(山口県)の最終決戦は、海の戦いに慣れた平氏が有利と思われていた。しかし、弓矢で舟の漕ぎ手を狙い、舟を動けなくしてから攻めるという、義経らしさをいかんなく発揮した戦法で勝利をおさめ、ついに兵士を滅ぼしたのだった。

徳川家康が恐れた「日本一の兵」――真田幸村

 対するは、長野県出身で、戦国時代を代表する戦上手、真田幸村。本名は信繁(※)という。

 幸村が華々しく活躍したのは、徳川家康が豊臣家を滅ぼそうとした「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」。このとき幸村は豊臣方で参加した。「大坂冬の陣」では、大坂城の外側に「真田丸」という出城をつくり、徳川の大軍を相手に一歩も引くことなく、大坂城を防御。続いて行われた「大坂夏の陣」では、家康の本陣に3度も攻め込み、あと少しで家康を討ち取るところまでいった。

 結局戦いには敗れたが、この戦いぶりでのちに、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とたたえられた。

■戦い方も生きざまも絶大な人気を誇る

 独創的な戦いで源氏に常に勝利をもたらしながら、兄と対立して若くして亡くなった義経は、悲劇のヒーローの代名詞になった。一方、敗れはしたものの、徳川家康の大軍に一歩も引かず戦った幸村は、強大な敵に果敢に立ち向かった猛将ぶりが日本人の心をとらえている。

 タイプは違うが、このふたりは戦上手というだけでなく、その生きざまでも日本史の中で絶大な人気を誇っているといえる。

※信繁=本人が幸村を名乗った記録はなく、のちの時代に幸村を主役にした物語などで広まった名前といわれている。

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源義経と真田幸村の素顔は?