哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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北方四島交流事業における「戦争」発言で丸山穂高衆院議員が日本維新の会を除名になった。この人の言動は議員辞職に値するものだと私は思う。
最終的には謝罪に追い込まれたが、当初は批判に際して「真意を切り取られて心外」「言葉尻だけとらえられても困る」と定型的な言い訳をしていた。
政治家が失言すると「そんな意味で言ったのではない」「文脈から切り離された引用だ」という言い訳から始まり、いよいよ騒ぎが収まらなくなると「誤解を招いたとすればお詫びする」と、メッセージを曲解して、騒ぎを大きくした相手にまるごと責任を押し付けて、ふくれっ面で退場する……という場面をこの数年間、飽きるほど見てきた。
改めて言うまでもないことだが、公人において問題になるのは外に現れた言葉と行為だけである。極端な話、心の中にどれほど邪悪な妄念が渦巻いていようと、可視化された言動が遵法的で適切であれば、公人としてはまったく問題がない。逆に、心のうちがどれほど純良で廉潔であろうとも、外に出た言動が欠格条件に該当するものはただちに公務を辞さなければならない。この理屈がわからない公人があまりに多い。
「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正さず」という古諺(こげん)が教えるのは、「瓜畑に踏み込むと瓜泥棒だと思われる。すももの木の下で冠をいじるとすもも泥棒だと思われる」という公人における推定有罪のことである。私人には推定無罪が適用されるが、公人には推定有罪が適用される。ダブルスタンダードなのである。
「瓜田」は斉の威王の後宮にいた虞姫(ぐき)が冤罪で刑される時に言った言葉である。「人の疑念を拭い得なかったこと、わが身の潔白のために弁じてくれる人を持ち得なかったこと」を自らの不徳として刑を受け入れた後にこう言ったのである。
公人には「外からは不適切と解されかねない言動をなしたが、真意は違う」という言い訳が許されない。言い訳したければ公務を引いた後にする他ない。これを忘れて、私人のつもりで公務に就く政治家があまりに多いので、あえて贅言(ぜいげん)を弄するのである。
※AERA 2019年5月27日号