1984年1月、デナリ(マッキンリー)出発直前の植村直己さん。登山基地・タルキートナの飛行場で(写真提供:大谷映芳さん)
1984年1月、デナリ(マッキンリー)出発直前の植村直己さん。登山基地・タルキートナの飛行場で(写真提供:大谷映芳さん)

 冒険家・植村直己さんが厳冬のデナリ(マッキンリー・6190メートル)で消息を絶ってから、35年。その遺体はいまだ見つかっていない。しかし数年前、植村さんの遺体ではないかという通報がもたらされ、捜索が行われたことがあった。

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*  *  *

 2011年5月。デナリの登山基地として知られるアラスカ州の村、タルキートナのレンジャーステーションに、1件の通報がもたらされた。通報したのはアメリカ人の登山家コンラッド・アンカー氏。レンジャーステーションの広報官モーリン・グワルチェリさんによると、次のような通報だったという。

「デナリで、雪に埋もれた遺体を見つけた。髪の毛が露出していて登山装備もいくつか見えた」

 そのときタルキートナにはふたりの日本人登山家が滞在していて、この報を耳にしている。花谷泰広さんと谷口けいさん(2015年、大雪山で死去)。いずれも、登山界のアカデミー賞と言われる「ピオレドール賞」を受けた日本を代表する登山家だ。花谷さんによると、この通報には続きがあった。アンカー氏のチームにいたスノーボーダーのひとりがこう補足したという。

「20年ほど前、同じ場所をスノーボードで滑ったことがある。そのときも遺体を見たんだ。青いジャケットのアジアンフェイスだった。傍らにはバンブーポールがあったよ」

 レンジャーの間から、こんな声が上がった。

「それは、ナオミ・ウエムラではないのか?」

 植村直己さんは冒険に出る際、クレバス(氷の裂け目)に転落するのを防ぐために竹の棒を腰に括り付けていた。竹の棒はいわば、植村さんのシンボルともいえるアイテムだ。デナリ登山の前にもアラスカ・アンカレッジの空港で、妻の公子さんが送った青竹を受け取っている。

 花谷さんは振り返る。

「まさか!と思いましたよ。バンブーポールがあってアジアンフェイス、これはもしかしたらと……」

植村さんはどこに

 植村直己さんは1984年2月12日、43歳の誕生日当日に世界初となるデナリの冬季単独登頂に成功した。しかし、翌13日の無線交信を最後に消息を絶つ。

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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植村さんの姿はどこにもなかった…