その後、ベースキャンプまで同行していたテレビディレクターで登山家の大谷映芳さんらが捜索に向かい、4200メートル地点と4900メートル地点にある植村さんの雪洞を発見した。さらに2月25日には、植村さんの母校・明治大学山岳部OBによる救援隊が5200メートル地点で新たな雪洞を見つけている。明治大学の救援隊が見つけた雪洞には食料と登山装備が残されていたが、植村さんの姿はなかった。

 この発見から、植村さんは登頂後、雪洞に帰り着いていないことが推認されている。雪洞より上部で事故にあったのか、雪洞を見逃してさらに下降中にアクシデントがあったのか。

 明治大学は第二次救援隊も派遣し、山頂に植村さんが残した日の丸を回収したが、植村さん本人はついに見つけられなかった。

 2011年の通報は、植村さんの行方につながるかもしれない久しぶりの情報だった。

 植村さんは、デナリの登山ルートのうち最も一般的な「ウエスト・バットレス」ルートを登っていた。一方、遺体を見たとの通報がもたらされたのは「ウエスト・リブ」ルートという別のルート近くのこと。

 別ルートにも関わらず、なぜ植村さんではという声が上がったのか。現役のレンジャー、デビット・ウェーバーさんが解説する。

「ウエスト・リブルートとウエスト・バットレスルートは、山頂からの下り口が同じ側にあるルートです。悪天候時や視界が悪いとき、バットレスルートの代わりにリブルートを下る人は少なくありません。植村さんが登頂後、天候を考慮しての判断か、あるいは道を誤ってかはわかりませんが、リブルートを下った可能性は十分に考えられます」

 登頂翌日、上空を飛ぶセスナと無線交信した際に、植村さんは「2万フィート(約6000メートル)地点にいる」と話したが、雑音が多く聞き取れない部分もあった。現在位置がはっきりとわからない旨も話している。また、山頂付近はガスに覆われていて、上空から姿は確認できていない。そのときすでに、ウエスト・リブルートを下っていたとしても不思議ではない。

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通報者が“予感”を高めた