ただし、そこらのお父さんのビールっ腹と違うのは、その中身だ。伝えられるその食生活などから考えて、家康は「腸活の達人」。膨らんだおなかを満たしていたのは、脂肪ではなく腸内細菌だったのではないか、と永山さんは推測するのだ。

「人は普通、体内に約1.5キロもの腸内細菌を持っています。一方、家康公は、馬につかえるほどの大きなおなかで、人より多い2~3キロの腸内細菌を育てていたと考えられる。そしてこの腸内細菌が、何より家康公の長寿に貢献した“お宝”だった可能性は高い。まさに埋蔵菌ですよね」

 そんな家康の食生活を探る前にプロフィルから。家康が没したのは、平均寿命が35歳前後だった当時にしては、ダブルスコアのご長寿といえる75歳(享年)。それも現代では、専門家顔負けの医薬の知識を持った、史上最古にして最強の「健康オタク」と呼ばれるほど、ストイックな健康管理に努めていたことで知られる。つまり、自らの手で勝ち取った長寿だったのだ。

 子どものころから人質に出されるなど、戦国の乱世に間近で立ち会ってきた家康。53歳だった武田信玄が勝利目前の戦場で病に倒れ、49歳の織田信長が本能寺で倒れ、豊臣秀吉が60歳そこそこで老衰で倒れるなど、多くのライバルたちが、死によって撤退を余儀なくされるのを、目の当たりにしてきた。

 ホトトギスを「鳴くまで待つ」とか言っても、鳴く前に自分が死んでしまっては、元も子もないわけで。辛抱強く待つことが、何よりの武器だった家康にとって、健康で長生きすることこそ「勝利の方程式」だと、確信していたようなフシも見える。

 そんな家康の健康管理のなかでも、とくにこだわったとされるのが、食。それも暴飲暴食のほかの大名たちを尻目に、ひたすら質素な食を心がけていたという。有名なのが、麦飯だ。つぶさない丸麦を、少しの白米と混ぜて炊いたものを、毎食の主食にしていた。

「幕末から明治の初めに書かれた『名将言行録』には、こんなエピソードが紹介されています。あるとき家臣が気を利かせて、白飯の上に少しの麦飯をのせて出した。ところが家康はすぐに気がつき、家臣を叱って、すぐにいつもの麦飯に取り替えさせたそうです」(永山さん)

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