黒沢清監督「人生どうなるか分からない」後で知ったPFF入選の経緯とは (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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黒沢清監督「人生どうなるか分からない」後で知ったPFF入選の経緯とは

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大道絵里子AERA

黒沢清(くろさわ・きよし)/1955年、兵庫県生まれ。立教大学の自主映画サークルで製作した「しがらみ学園」が81年PFF入選。97年の「CURE」以降、国際的にも注目される日本を代表する映画監督(撮影/高井正彦)

黒沢清(くろさわ・きよし)/1955年、兵庫県生まれ。立教大学の自主映画サークルで製作した「しがらみ学園」が81年PFF入選。97年の「CURE」以降、国際的にも注目される日本を代表する映画監督(撮影/高井正彦)

 1977年にスタートし、今年で40回目を迎えるぴあフィルムフェスティバル(PFF)。立教大学の自主映画サークルで製作した「しがらみ学園」が81年に入選した黒沢清監督は、入選の経緯を後ほど知り驚いたという。

*  *  *
 当時、8ミリフィルムで映画を撮る学生が増えてきていた時代であり、僕もその一人でしたが、「ぴあ」が一般商業映画を差し置いて、あえて8ミリ映画のフェスティバルを大々的に始めたことは、かなり強烈な出来事でした。あの「ぴあ」が!というのも大きかったし、コンテスト形式をとったことにも驚きでした。だから第1回ぴあ展から見に行きましたけど、僕にとってはあくまで他の人の作品を見る場。早稲田の長尾直樹監督の「THE GREAT ADVENTURE OF PHOENIX」(第1回入選作)には衝撃を受けましたし、他にも驚くような作品がありましたね。

 それでもPFFが始まってしばらく経つころには、せっかく作ったなら自分たちも出そうよ、と大学の映画サークルで撮った「しがらみ学園」を送ったら入選したんですが……そこはまぁそうか、というくらいのものでした。というのも、僕はすでに学生でありつつ商業映画の助監督もやっていたんです。大学3年生のころ、雑誌の8ミリ学生映画特集の座談会で、新人監督として脚光を浴びていた長谷川和彦さんと知り合い、なぜか僕の作品を気に入ってくれたのをきっかけに、仕事を手伝うようになって。「太陽を盗んだ男」の脚本は長谷川さんと相米慎二さんと僕の3人で書きましたし、撮影現場にも制作進行で入ったりしていました。だから、PFFで入選したからって別に……なんて、すれっからしになっていたわけですね。

 それに、たまたま僕が応募した年の審査員の一人が長谷川さんだったんですよ。当時は審査員が一人ずつ選ぶ形で。これは後で聞いたんですけど、つながりのある僕を選ぶわけにいかないと思った長谷川さんは、隣に座っていた大森一樹さんが迷っているのを見て「悪いこと言わないから黒沢にしろ」と言って、大森さんも「じゃあ」と僕の入選が決まったと種明かししてくれました。僕、コネで受かったんですよ(笑)。だから、嬉しくはあったけど、まぁそんなもんかと。


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