すでに徳洲会は北海道から九州まで、20近い病院網を構築していた。盛岡は全国の病院スタッフに「可能な限り、車で鎌倉に集まってくれ」と大動員をかける。鎌倉に集結した職員は、一斉に署名活動を行った。わずか2週間で徳洲会の進出を望む署名が約8万5千も集まる。鎌倉市の総人口は約17万5千人だったので、およそ半分の市民が署名したことになる。

 この大量署名を武器に、盛岡は神奈川県へ徳洲会の病院開設の認可を求める。地域医療計画が発効するのは87年4月1日だった。前日の3月31日までは、従来の原則的に自由な方針で開設は認められる、はずだった。

 ところが、医師会主導の神奈川県医療審議会は鎌倉の病院新設プランを「不可」とした。盛岡は、神奈川県庁に日参し、市民が希望する病院を開設できないのは理不尽だと訴える。県の職員とやりとりしている過程で、ひとつの突破口が見つかった。

 それは「個人病院」として申請し、開設することだ。法的に医療審議会も個人病院は拒めなかった。

 盛岡は個人で建設資金の融資を受けて病院を建てる決心をした。

●湘南鎌倉病院の竣工式 神奈川県庁に怒鳴り込む

「徳洲会幹部の医師に打診したけれど、引き受け手がいない。自分でやるしかなかった。貯金は全然ありませんでした。銀行が3千万円の定期預金を組んでくれて、土地などを担保に14億円余りを借りて約400床の個人病院の新設プランをつくりました」

 と、盛岡は振り返る。87年3月、盛岡が院長兼オーナーの「湘南鎌倉病院」の開設が認められた。個人が病院を開き、その後に医療法人へ移行するのはよくある話だ。法的に問題はない。

 だが、事情が事情だけに医師会側は徳洲会の隠れ蓑だと神経を尖らせる。87年7月の衆議院決算委員会で医師免許を持つ自見庄三郎(のち郵政大臣)は、「実態は徳洲会が開設しているのではないか」と厚生省に質した。厚生省は「事業計画も資金計画も適正で、申請した盛岡氏自らの責任のもとで運営する」と神奈川県が判断したと答える。国会で認可問題が取り上げられ、神奈川県の職員はピリピリした。

 当時、社会福祉・医療事業団(現独立行政法人福祉医療機構)から徳洲会東京本部に出向した平腰昭は、神奈川県に挨拶に行った際の印象をこう語る。

「徳洲会の病院建築に携わる建築士の案内で神奈川県庁に参りました。すると、担当職員が『君は徳洲会の人間じゃないか。なんでここにいるんだ。出入りならん』と建築士を大喝した。驚きましたねぇ。県は“盛岡病院”に許可を下ろしたのであり、徳洲会は一切手出しをするな、という態度でした」

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