9月、徳田は建設予定地の町内会・住民説明会で「医師会が反対しても、住民の(病院建設を望む)声は消せない」と語る。住民側は徳洲会の進出を望んでいた。医師会は地元住民に「徳洲会は危険な病院だ」と訴える。宇治市長は、住民が推す徳洲会と、集票力を持つ医師会の板挟みで頭を抱えた。

 同年12月、市長の仲介で徳洲会と医師会の話し合いの場が持たれた。その会議の録音テープをもとに週刊現代79年1月4・11日合併号は、次のようにやりとりを再現している。

医師会「あんたは地元紙に『医師会に入らなければならない法的根拠はない』とまでいっている。そんなことをいう人間は人格に疑問がある」

徳田「地元紙が勝手に書いている。人格をいうなら、(自分を門前払いせず)本人に直接会って確かめてほしい」

医師会「徳洲会は二十四時間オープンというが、全科の先生がいるのか」

徳田「内科、外科、産婦人科、小児科の医師が当直し、他のどの医師も十分から二十分で病院にこられる場所に住んでいる」

 対話は、どんどん感情的になり、火花を散らす。

医師会「あんた、最終的にはなにをやりたいのか?」

徳田「最終的には無医村をなくすことで、出身地・徳之島の医療をやりたい」

医師会「それなら、人のいやがる場所に病院を建てんと、徳之島へ帰ったらええやないか。徳之島へ帰りなさい。島へ帰って自分でやればいいじゃないか」

徳田「行ったこともなく、知りもしないで徳之島のことがいえるのか」

 医師会側の発言には、奄美群島出身の徳田への差別的な匂いが漂う。話し合いは、物別れに終わった。

●医療費抑制という命題病床規制に乗り出す

 数日後、宇治医師会のメンバーは、武見天皇へ直訴に行く。徳洲会は医師会に相談せず病院をつくり、地域医療を破壊すると訴え、歯止めをかけるよう政府に働きかけてほしいと頼んだ。喧嘩太郎の剛腕にすがったのだ。

 だが、予想に反して武見の返答は木で鼻をくくったようなものだった。

「地区のことは、地区で片づけたまえ」

 武見は、世論が医師会に味方しないと見抜いていた。医師会は徐々に孤立する。とくに学校医や予防接種のボイコットへの風当たりが強まった。

「医師会は子どもを人質に取るのか」

 と親たちが抗議をする。

 宇治と同じく徳洲会と対立していた神奈川県の茅ケ崎医師会は、市当局に予防接種、日曜・祝日の当番医、休日夜間診療の拒否を申し渡したところ、市民の激しい怒りを買った。

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