なおも京都府と神奈川県の両医師会は、厚生大臣(現厚生労働大臣)の橋本龍太郎(のち首相)に「徳洲会の理念と、その実行方法を誇大に宣伝することは医療法違反」と陳情する。何が何でも徳洲会の進出を止めようとした。橋本は「慎重な対応が必要」と言ったきり、面談を打ち切った。

 勝負あり、医師会の完敗であった。宇治市と茅ケ崎市に徳洲会の新しい病院が建設される。最終的に民意が徳洲会の後押しをしたのだった。

 徳洲会と医師会の対立が激化するなか、厚生省は、戦後最大の医療法改正にとりかかる。目的は「医療資源の適正配置」だ。都道府県が「地域医療計画」を策定し、複数の市町村を一単位とする「二次医療圏」ごとに必要病床数を設定する。

 実際の病床数が必要病床数を上回る過剰地域では病院新設(増床)を認めない。必要病床数より不足している医療圏なら増床を認める。もしも医療法人が地域医療計画に従わなければ、都道府県知事は医療審議会に諮ったうえで、強く是正の勧告ができる。病床規制の色が濃い法改正である。

 厚生省が病床規制に乗り出した背景には、医療費抑制という命題が横たわる。83年3月、厚生省保険局長・吉村仁は、全国保険・年金課長会議で「このまま医療費が増え続ければ、国家がつぶれるという発想さえある」と「医療費亡国論」をぶっている。

●病院新設プランは「不可」「個人病院」として申請

 その2年後、医療法の大改正は行われた。各都道府県は順次、地域医療計画を策定し、病床を適正に配置するよう方向づけられる。民間の医療法人は、もう自由に病院を建てられなくなると焦った。地域医療計画が施行される前に大急ぎでベッド数を増やそうと「駆け込み増床」に拍車がかかる。

 徳洲会も然りだ。医療過疎地、神奈川県鎌倉市で病院建設に動く。プロジェクトを仕切ったのは、徳田に次ぐナンバー2の盛岡正博(現佐久学園理事長)だった。盛岡は、68年に京都大学医学部を卒業し、精神科医療の改革運動に加わった後に渡米。帰国後、徳洲会に入職していた。

 鎌倉も地元医師会が徳洲会の進出に猛然と反対していた。神奈川県は地域医療計画の策定を急いだ。幸い、苦労して開設した茅ケ崎徳洲会病院(現湘南藤沢徳洲会病院)に多くの鎌倉市民が時間をかけて通院し、評判は上々だった。「駆け込む」チャンスはいましかない。

 盛岡は地元の「民意」をさぐる。33人の鎌倉市議会議員を個別訪問し、話を聞くと、共産党の4人を除く、29人が「病院は必要」と賛意を示す。いける、と手ごたえをつかんだ。

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