なぜ今、企画展「1968年」を開催したのか? きっかけはダンボール50箱の資料… (2/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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なぜ今、企画展「1968年」を開催したのか? きっかけはダンボール50箱の資料…

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渡辺豪AERA
日本大学の学生が全共闘運動に使用したヘルメット(国立歴史民俗博物館蔵)(写真:国立歴史民俗博物館提供)

日本大学の学生が全共闘運動に使用したヘルメット(国立歴史民俗博物館蔵)(写真:国立歴史民俗博物館提供)

三里塚闘争で空港反対同盟が使用したタスキ、鉢巻き、腕章(成田空港 空と大地の歴史館蔵)(写真:国立歴史民俗博物館提供)

三里塚闘争で空港反対同盟が使用したタスキ、鉢巻き、腕章(成田空港 空と大地の歴史館蔵)(写真:国立歴史民俗博物館提供)

ベ平連こうべの旗(1972年、個人蔵)(写真:国立歴史民俗博物館提供)

ベ平連こうべの旗(1972年、個人蔵)(写真:国立歴史民俗博物館提供)

「在日米軍基地がベトナム戦争に不可欠な機能を果たしていたことは、それまで主として被害の論理で展開されていた日本の反戦平和運動を新たな地平に導くことになりました。『今われわれは平和なのか』という問いが、広範な人々の政治意識を活性化させました」

 ベ平連は個人の運動を束ね、「ティーチイン」という討論形式の集会など新しい運動形態を通じて市民参加の裾野を広げた。

「ベトナム戦争は若者の心に、じっとしているわけにはいかないという切羽詰まったものをかき立てる戦争でした。在日米軍を抱える日本はベトナム戦争にもろに加担していく状況でしたから、私たちもそれに反発する気持ちが強く、共鳴しながら運動していました」

 こう打ち明けるのは、成田空港建設に反対してきた「三里塚・芝山連合空港反対同盟」熱田派の元事務局長、石毛博道さん(68)=千葉県芝山町在住=だ。

 新東京国際空港(現成田空港)の予定地が、66年の閣議決定で地元の成田市三里塚に決まったときは高校2年生だった。

「集落全体がハチの巣をつついたような騒ぎになったのを覚えています」(石毛さん)

 三里塚闘争の主要実動部隊である「青年行動隊」に加わり、機動隊と衝突を繰り返した石毛さん。「忘れ難い」と振り返るのは、71年2~3月と9月の2回にわたって国が実施した、土地収用法に基づく代執行だ。反対派農民の農地が強制収用されるのに反発し、現場で抵抗した逮捕者は1200人を超え、警察官3人が死亡した。

「一生かかっても経験できないようなことが、この1、2年の間に降りかかってきたような感じでした」(石毛さん)

 三里塚闘争は、ベトナム反戦運動だけでなく、全共闘運動や水俣病闘争とも連帯していた。71年から73年まで患者や支援者らが水俣病の原因企業である「チッソ」の東京本社で座り込みを続けたとき、自分たちが作った野菜や米を差し入れた。

 今回の企画展示には、三里塚闘争の関連資料を所蔵する「成田空港 空と大地の歴史館」(千葉県芝山町)も展示品を提供した。石毛さんは感慨深げに語る。


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