そもそも義務教育の中学校に夜間部があることは、あまり知られていない。

 夜間中学(夜間学級)は47年、大阪・生野に初めてできた。戦後の混乱期、経済的理由で昼間に働き学校に通えない子どもたちの学び直しの場をつくらなければ、という教師たちの熱意によって開設した。

 夜間中学は時代を映す鏡でもある。戦争、貧困、差別……。さまざまな事情を抱える人たちの受け皿となり、ピーク時の55年には全国に89校、約5200人の生徒が在籍した。今、8都府県にわずか31校、1660人(2017年5月1日現在)。だが、国勢調査(10年)によれば、義務教育を修了せず学齢期を超越した「未就学者」は、外国籍の人も含め全国で約12万8千人いる。「学びの場」が必要であるにもかかわらず増えなかったのはなぜか。前川さんは、「文科省の責任」と説明する。

「文科省の組織としての建前は、夜間中学は本来不要なもの。昼間の義務教育をしっかりと整備すればいらないからいずれなくすべき、という考え方でずっときていました」

●夜間中学を法的に位置づけ不登校など就学機会を確保

 60年代に入り経済成長や就学助成制度の整備が進むと、60年代後半には夜間中学の生徒数は400人台にまで減り、廃校に追い込まれていった。そこに追い打ちをかけるように66年、行政管理庁(現・総務省)は文部省に対し「夜間中学早期廃止勧告」を出した。夜間中学関係者の間で「悪名高き勧告」として知られるが、国が「夜間中学の使命は終わった」と宣言したのだ。これに文部省も同調した。そもそも、行政管理庁から廃止しろとの勧告を受け「夜間中学のご案内」などを作れる雰囲気ではなかった。見て見ぬふりをし、自然消滅するのを待っていた。そんな流れの中にあって、現場の教師たちは「夜間中学の火を消すな」と奔走した。

 70年代に入ると在日の人に加え、韓国と中国からの帰国者(引き揚げ者)が増え、80年代には「不登校」の子どもたちの受け皿となってきた。

 90年代に入ると外国人労働者の増加に伴い、生徒の主役は外国籍か外国にルーツを持つ「ニューカマー」に移った。一方で、不登校経験者の夜間中学への入学の道は、ほぼ閉ざされることになる。文部省は「卒業証書はすべての生徒に渡す」といった指導を各教育委員会に行った。義務教育に留年や除籍はあってはならないという原則のもと、不登校や病気などで学校に行かないまま中学を卒業する「形式卒業者」と呼ばれる子どもたちを多数生んだ。前川さんは言う。

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