さまざまな顔を持った満鉄とは、一体何だったのか(※写真はイメージ)
さまざまな顔を持った満鉄とは、一体何だったのか(※写真はイメージ)

 南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。鉄道ばかりか炭鉱、学校、ホテルまで経営するなどさまざまな顔を持った満鉄とは、一体何だったのか。

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「満鉄の本質は政治性にありました」

 日本の敗戦過程に詳しく『満鉄全史』などの著書がある、国文学研究資料館の加藤聖文准教授(日本近現代史)はそう話す。

 株式会社の形態をとり、設立時の資本金は2億円。この部分だけを見ると満鉄は民間企業のイメージがある。だが、建前として民間企業をうたっていたに過ぎないと、加藤准教授は指摘する。

●主権は中国 妥協の産物

「ポーツマス条約によって日本が南満州を経営できるとなった時、具体的な機関が必要となりました。しかし、主権は中国が持っている以上、国家機関を置くわけにはいかない。妥協の産物として株式会社の形態を取ったに過ぎません。実態は、日本の国家戦略を推進する政治性を持った『国策会社』でした」

 満鉄の活動を支えた理念が、初代総裁の後藤新平が唱えた「文装的武備論」だった。軍事は前面に出さず教育、衛生、学術など産業振興を進めることが軍備増強以上に軍事的効果をもたらすという考えだ。

 その象徴が、鉄道付属地の都市計画とヤマトホテル。付属地の主要道路の幅は最大約36メートルで、パリやベルリンを意識した。欧米人の観光客や実業家の招致を狙っていた後藤は、世界水準の設備とサービスを求め、大連や奉天などに豪華なヤマトホテルを建てた。

 だが、1931年に起きた満州事変を境に、満鉄は変質。満鉄付属地の行政権は、新たにできた「満州国」に移った。満鉄の役割は、軍事的な戦略目的の鉄道建設と軍事輸送へと傾斜した。

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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