以後も映画製作は続けるが、大作は数年に一度となっていく。

「本を売るための映画」である以上、角川から出ていない本は映画にできない。『セーラー服と機関銃』は他社から出た本だったので映画化が危ぶまれたが、その版元にもロイヤルティを支払うことで、角川文庫から出して映画にした。

 赤川次郎はこれをきっかけに大ベストセラー作家になり、薬師丸ひろ子は「時代のアイドル」となり、相米慎二は名監督となり、主題歌を作った来生たかおもブレイクした。「何も持たなかった」角川映画は薬師丸ひろ子や原田知世を専属にし、彼女たち中心のラインアップとし、またも成功した。

●製作委員会方式の元祖

 しかし、薬師丸、原田が角川から独立していくと、陰りが出てきた。

 起死回生を期して超大作「天と地と」を放ち、50億5千万円の配給収入を上げるも、製作費が52億円もかかったので利益は出ない。かつて大河ドラマ化で角川書店の救世主となった原作はこの時も売れたが、それ以外の海音寺潮五郎作品は売れず、角川の財務は傷んできた。

「天と地と」は、角川だけでは製作費が賄えないので、製作委員会方式が採られた。現在、ほとんどの映画が製作委員会方式で作られているが、これを本格的に始めたのも角川映画で、実弟の角川歴彦(つぐひこ)は自分のアイデアだったと語っている(現在、製作委員会方式は弊害が生じており、歴彦はそれも認識し、次の手を考えているようだ)。

 歴彦は兄・春樹との考え方の相違から、92年秋に角川書店を去った。1年後に春樹が逮捕され社長を辞任すると、歴彦は復帰した。角川の映画作りは中断したが、95年にアニメで再開し、やがて大映まで買い取る。

 角川グループは映画作りをしていたことで映像全般に強くなり、アニメ、ゲームへと事業は拡大していった。さらにはドワンゴと経営統合し、インターネット時代への対応も怠らない。

 かつて映画会社はテレビを敵視した結果、衰退した。同じように、出版界はネットを敵視あるいは無視していたが、角川はいちはやくネットを取り込んでいく道を選んだ。

 角川映画誕生から40年。時代は一周りした。次の時代もまた角川が先駆者なのだろうか。(本文中敬称略)

(編集者/作家・中川右介)

AERA 2016年8月15日号