「警察は大学側の暴力行為を取り締まりにきたと、僕らは思いました。しかしそうではなかった。僕ら学生を捕まえにきたのです。使途不明金という悪さをした大学が国に守られ、不正を訴える僕らが国から犯罪者扱いされたわけです」

 多くの学生は怒った。翌日から経済学部1号館はバリケード封鎖され、Kさんもここで寝泊まりするようになった。

 三崎町、神田神保町で暮らす生活が続いた。デモのあとは必ず近くの銭湯に通い、近くの喫茶店「白十字」で議論した。中華料理屋「北京亭」からはよく出前をとった。

「そこのおやじさんがバリケードの中までラーメンを届けてくれ、自分たちを励ましてくれました。学生が機動隊に追われて古本屋に逃げ込むと、かくまわれることもあった。材木屋が火事になったとき、日大全共闘が火を消しにいき、消防庁から表彰されたことがある。それぐらい街とは近かった」

 48年経った現在、日大経済学部1号館はそのままの形をとどめている。白山通り沿いで当時軒を並べていた喫茶店、食堂の看板はずいぶん変わったが、「北京亭」「白十字」は現存する。日大全共闘OB・OGは時折、懐かしくなって立ち寄っている。(教育ジャーナリスト・小林哲夫

AERA 2016年7月18日号