その不安は、「早くから英語をやらせたほうがいいのではないか」「プログラミング教育もしておいたほうがいいに違いない」「スポーツも何か一つくらいできたほうがいいだろう」などと多方面にわたる。少子化で一人の子どもにかかる親の期待と不安は倍増。小さな子どもにあれもこれもといくつもの習い事をさせて、どこまでも追いつめてしまう。

 そこに「子どもの出来は親の腕次第」という幻想が加わると、「なんとしてでもわが子にいい教育を与えなきゃ」という強迫観念が生まれ、親たちは、巷にあふれる「頭が良くなる勉強法」や「東大に合格させるための親の習慣」のようなものを熱心に研究し始める。結局、「あの子の親は、息子を○○学校に入れたからすごい。この子の親は、娘を△△学校にしか入れられなかった」などという話になるのだ。

 私自身、教育雑誌などのインタビューで「正解のない世の中を生きていかなければならない子どもたちに、いま、どんな教育をするのが正解なのでしょうか?」という冗談のような質問を本気でされる経験を何度かしたことがある。質問者も「追いつめる親」も正解主義から抜け出せていないから、子どもの状態を見るより先に、「正解」に当てはめようとしてしまう。彼らが「正解」と考えたものがたまたまその子にとっての最適解と一致すればいい。しかしそれが一致しなかったとき、子どもは苦しいばかりだ。正解を疑わない親は、それでも無理やり子どもを正解に合わせようとする。「あなたのため」が子どもを壊しかねないのだ。

AERA 2015年7月27日号より抜粋