中国に伝統的な鍼と薬のコンビネーションでALSを治すクリニックがある、とも教えられた。「でもやはりそこまで行くのは大変です」(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)
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中国に伝統的な鍼と薬のコンビネーションでALSを治すクリニックがある、とも教えられた。「でもやはりそこまで行くのは大変です」(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)

 その流麗な歌声で日本でも多くの聴衆を魅了したアーティスト、ヤドランカ・ストヤコビッチは今、祖国ボスニアのスルプスカ共和国の中心都市バニャ・ルカの施設にいる。脳の命令を筋肉に伝える運動ニューロンが侵されるALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し闘病生活を送っているのだ。

 原因不明のこの難病は徐々に身体機能が失われていき最後は呼吸も自力でできなくなるが、意識だけははっきりと残る。動かなくなっていく身体と日々、向き合わなくてはならない。ヤドランカは話す。

「去年、足から上の筋肉が動いてもっと元気だった頃、よく考えていました。なぜ私はあんなに日本の文化に入っていけたのか。音楽も画も食文化も人々も、日本のすべてが好きでした」

 ヤドランカの名前が一躍世界に知られたのは1984年。ユーゴスラビア(当時)の国民的歌手としてサラエボ冬季五輪のメーンテーマ曲を作り、セレモニーで歌ったことで高い評価を得た。日本との縁は88年にレコーディングと音楽祭のために来日したのがきっかけ。その後、滞在中にボスニア内戦が勃発し、帰国を見送らざるを得なくなった。

 不屈の努力で言葉を習得して日本を拠点に音楽活動を開始し、都合23年を過ごした。2009年にステージ上で大きなケガを負って車椅子での生活を余儀なくされる。

 11年に東日本大震災が起こると、自分のマンションを被災者に提供してクロアチアでの仕事に向かい、リハビリのためにボスニアに帰った。体調が回復すればまた日本に戻る予定だった。しかし、思った以上に治療は長引き、やがて医師からALSを宣告された。

 やはり麻痺は進んでいるという。かつてオフマイクでも大きなホール中に響き渡ったヤドランカの声は今、か細く途切れる。

「この病気を治す新しい薬ができたと友人から聞いたのですが、まだ認可が下りないそうです。私は、治験者になってでも使ってみたかったのですが、それも叶いませんでした」

 一時、SNSを席巻した氷水パフォーマンスのその後はどうなったのか。少なくともここでは患者の療養支援に直結した動きは見えてこない。

 当初、筆者は私的な見舞いとしての再会だったので写真を撮るのははばかられたが、ぜひ撮ってほしいという。

「私のことを伝えてほしい」

AERA 2014年11月24日号より抜粋