左から「サンデー毎日」1989年6月18日号(毎日新聞出版提供)と週刊朝日2022年2月25日号
左から「サンデー毎日」1989年6月18日号(毎日新聞出版提供)と週刊朝日2022年2月25日号

 1922年4月2日に創刊された「サンデー毎日」と「週刊朝日」。それから101年、新聞社系週刊誌としてしのぎを削ってきた両誌編集長の対談が実現。「週刊朝日」休刊の衝撃を語りあう。

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城倉由光・サンデー毎日編集長(以下、城倉):週刊朝日がなくなると聞いて、編集部もすごくどよめきました。やっぱり業界激震ですよ。当然SNSなんかでは「え、サンデーのほうが早いんじゃないの」「次はサンデーだろ」みたいな声もありましたが……。なんとか大丈夫です(笑)。週刊朝日は規模も大きいから小回りが利かなかったのかなと。

渡部薫・週刊朝日編集長(以下、渡部):58年に150万部を記録した部数は現在、平均8万部弱まで減っています。けれども部数減による打撃より大きいのは、広告減だと思います。こちらは全盛期の20分の1まで落ち込みました。取材費がかかる大がかりな企画に取り組もうにも採算が取れなくなった。

城倉:いつ頃から休刊の兆しがあったんですか。

渡部:部数が目立って落ちてきたというのはここ15年くらいでしょうか。ネットの普及で週刊誌はみなさん同様に苦しい状況だったと思います。うちの場合はアエラもあり、週刊誌を二つ抱えていたというのは結構大きい。

城倉:サンデー毎日もそうですけど、20万部くらいだった時代のビジネスモデルでやっていたら無理が出ちゃう。ですが、テレビが出てきたときも映画なんかなくなると思っていたらそうでもない。嗜好品として残るかもしれませんし、紙媒体の消滅ということは考えにくいとは思います。

左から城倉由光(じょうくらよしみつ)/ 1960年、愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学卒業。88年にサンデー毎日記者となり、毎日新聞東京本社社会部、サンデー毎日編集次長、15年から18年まで編集長、雑誌本部長などを経て現職 渡部薫(わたなべかおる)/ 1970年、東京都生まれ。1995年、朝日新聞社入社。秋田支局、東京地域報道部などを経て2014年から週刊朝日記者。15年副編集長、16年AERA編集長代理、19年宣伝プロモーション部長を経て21年4月から現職(撮影/写真映像部・高野楓菜)
左から城倉由光(じょうくらよしみつ)/ 1960年、愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学卒業。88年にサンデー毎日記者となり、毎日新聞東京本社社会部、サンデー毎日編集次長、15年から18年まで編集長、雑誌本部長などを経て現職 渡部薫(わたなべかおる)/ 1970年、東京都生まれ。1995年、朝日新聞社入社。秋田支局、東京地域報道部などを経て2014年から週刊朝日記者。15年副編集長、16年AERA編集長代理、19年宣伝プロモーション部長を経て21年4月から現職(撮影/写真映像部・高野楓菜)

渡部:101年にわたってライバルでありながら同志のような関係でやってこられたのは稀有(けう)なことだと思います。今連載してくださっている武田砂鉄さんがおっしゃっていたんですけど、聞き流す、読み飛ばす文化が雑誌の文化なのだと。「へえ」と思ってその後何も残らないというか、社会におけるそういうハンドルの遊びの文化をなんとか残していただきたい。若いときはサンデー毎日の五木寛之さんのコラムをそんなに興味を持って読まなかったですが、年を重ねて心に響くようになりました。これって長く続いていることのすごさだと思いますし、とにかく一日でも長く続けてほしいという思いでいっぱいです。

城倉:五木寛之さんがおっしゃっていたのですけど「編集者は鵺(ぬえ)のようになれ」と。鵺って正体不明の妖怪ですよね。週刊朝日の101年には、言葉に尽くせない経験知が詰まっています。物事には初めがあれば終わりもある。紙でもデジタルでもいいですが、また別の媒体を創ってほしい。そうなれば、「週刊朝日の精神は生きている」と読者は思うはずです。

(構成/本誌・佐賀旭)

※記事の前編を読む>>「『サンデー毎日』×『週刊朝日』両誌編集長が語る101年の歩み『連綿と続くパクリの歴史(笑)』」はコチラ

週刊朝日  2023年4月14日号より抜粋