毎日、新聞の死亡記事が目に飛び込んでくるが、ほぼ僕の年齢の前後の人達ばかりで、かつて会ったことのある人も多い。画家は他の職業の人に比べると長命が多いと聞く。ざっと頭に浮かぶ画家も大抵が90代までの長寿者である。現在は寿命が延びているので、これからの画家はもっと長命であろう。僕も画家の末席を汚している一人だから、予想以上に生かされていると思う。

 画家はどうして長命の人が多いのだろう。これは僕の想像であるが、画家は制作中に無心になれる術を心得ていて、子供のように三昧に没入することができる。そのことで頭の中は空っぽ状態になれるので、先ずストレスから解放される。医者に聞くと、現代の病気の大半はストレスだという。すると画家は制作時は没入するので確かにストレスからは見放されている。僕のように虚弱体質でも、絵を描いている時は頭の中は空白で、言葉や観念は追放されている。言ってみれば死んだ状態である。死んだ人間はこれ以上死ぬこともできない。死んだもん勝ちというのが画家である。先ず、ややこしいことは考えない。それと描くということ自体が目的になるので大義名分を持つ必要がない。はっきりいってアホになれる。寒山拾得になれる。だからか寒山拾得の絵ばかり描いている。理屈のない世界で生きている寒山拾得は画家の憧れのヒーローである。そのせいか江戸の大半の画家は寒山拾得を描いている。絵が究極に目指す世界が寒山拾得であると認識したせいであろう。

 北斎が90歳の時、あと10年延命を望んだ。そのことで究極の宇宙の神秘を描くことができると信じた。絵の究極は宇宙との一体感であろう。それが100歳を目前にした時、実感するのだろう。まあ、大抵の画家は、究極の境地を目前にして死んでいくのかも知れない。あと一歩で不退転に達するか、それとも、もう一度転生して、最後の仕上げを次の来世に託するのか、その辺は人それぞれであるが、できれば、今生を最後にして輪廻のサイクルから脱出したいもんだ。

 僕もそうしたい。5歳から80年間描き続けていて、いい加減に飽きた。もう一度生まれ変って最後の総仕上げなんてしたくない。画家は今生でもう結構。絵は文字通り未完のまま終ってしまうかも知れないが、こんなのは千年でも万年でも、絵の完成なんてあり得ない。どこかで見切りをつけるのもいい。やり残すというのではない。長くても短くても一生は一生だ。やり残したなんて思って死にたくはない。死ぬ時は仮に未完でもそれなりに未完という完成を果たして死ぬのがいいと思っている。もうこの年になると、死は目と鼻の先にある。肉体の死が全ての終りだとは思えない。次の次の、さらに次の命がある。だって人間はというか魂は死ねないようになっているのだから──。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2022年7月8日号

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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