皇族女性の婚姻に関わる一連の報道も不可解だった。多くの報道は、皇族女性の婚姻相手の為人は「報道すべきもの」との判断を前提にしていたし、国民も、婚姻の是非は「議論すべきもの」と考えていた。もちろん、報道に疑義を呈する人もいた。ただ、疑義の内容は、「このくらいの事では、為人(ひととなり)に問題があるとは言えないだろう」といったものも多く、「皇族の婚姻相手は公的に議論すべき対象だ」という前提を置いていた。

 しかし、「なぜ報道・議論すべきなのか」と問われたとき、明快な答えを持つ報道機関・国民は多くはないだろう。ここにも、国民が天皇制の目的をよく理解できていない、という現象がよく表れている。

 国民にとって、天皇制は、昔から当たり前のようにある。それゆえ、その制度が存亡の危機にあっても、その未来を真剣に考えようとしない。しかし、いい加減に考えなければいけない時が来ている。建設的な議論の前提に必要なのは、目的の確定だ。

 では、天皇制は何を目的とした制度なのだろうか。まず、「天皇個人の知識や経験を立法や行政に反映させ、立法や行政の向上を図る」といった目的でないのは確かだ。なぜなら、天皇は政治的権能を持たない(憲法4条)。天皇個人が、いかに優れた見識を持っていても、それを国政に反映することは許されない。

 そうすると、天皇制は「統治の内容」ではなく、統治に関する「国民の感じ方」に関わる制度だと理解せざるを得ない。天皇は、日本の歴史の中で特別な権威を帯びてきた。現代でも、天皇に権威を感じる人は一定数いる。天皇が公布・任命することで、法律や首相にも権威を感じたり、正しい統治だと感じたりする人はいるだろう。これを、「天皇による統治の正統性の調達」という。

 もっとも、現在の憲法は国民主権の原理に基づき作られている。つまり、「国民自身が決定した」あるいは「国民の代表が決定・選択した」という事実が、統治を正しいと感じる源泉でなくてはならない。とすれば、天皇による正統性の調達は、国民主権原理と矛盾する。それにもかかわらず、なぜ、日本国憲法は天皇制を置いたのか。

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