原:そこは半藤さんも強調していたポイントです。昭和天皇は「大宮様」と呼ばれた皇太后節子を非常に恐れていました。最近、百武三郎の侍従長時代(1936〔昭和11〕年~44〔昭和19〕年)の日記が公開されましたので、早速見にいきました。37年3月6日の日記には、侍医頭の佐藤恒丸が昭和天皇に会ったとき、「何時モ寛大ニ居ラセラルゝ御上ノ御景色全ク尋常ト御変リアリ且ツ御叱責ヲ蒙リタルコトアリ 其時ハ直前大宮様御参入アリシ時ナリシ」という談話が記録されています。皇太后に会うと、昭和天皇の精神状態が動揺するわけです。

保阪:揺れているというのは、どういう意味ですか。戦況は完全にギブアップ状態です。神がかり的な、何かを頼るというような心境と思いますか。

原:私の考えですが、昭和天皇自身は神がかっているとは思いません。むしろ冷静というか、少なくとも45年6月以降は講和に向けた段階になっていると理解している。しかし皇太后の意向を無視できない。弟である高松宮は37年9月4日の日記に、昭和天皇の皇太后に対する考えが「まるで、御孝心と云ふよりも非常に『さはらぬ』様な御考へであると思ふ」と皮肉っています。つまり皇太后の機嫌を損ねないように、宇佐、香椎まで行って敵国の撃破を祈っているんだということを示す必要があったのではないかと思います。勅使を派遣したということも、2014(平成26)年に「昭和天皇実録」が公開されるまで知られていなかった。つまりこの事実自体が極秘だったということです。

保阪:秩父宮、高松宮、三笠宮という3人の弟宮と貞明皇后の関係は、母親と子どもというわかりやすい構図で理解できますが、長男の昭和天皇に関しては単純な母親と子どもの関係ではない。そのわかりづらいところが天皇制の所以だということの分析を、もっとやるべきですね。

原:僕はどこかの出版社が百武三郎日記を出版すべきだと思います。かなり重要な資料です。

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