大川慎太郎(おおかわ・しんたろう)/1976年生まれ。将棋観戦記者。著書に『証言 羽生世代』など。
大川慎太郎(おおかわ・しんたろう)/1976年生まれ。将棋観戦記者。著書に『証言 羽生世代』など。

 人生の終わりにどんな本を読むか――。将棋観戦記者の大川慎太郎さんは、「最後の読書」に『最高に贅沢なクラシック』を選ぶという。

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 自分は死ぬ間際には、理屈に縛られない感覚的な文章を求めるのではないかという予感がある。

 私の職業は「将棋観戦記者」だ。公式戦を観戦し、取材して「観戦記」を書く。藤井聡太二冠がデビュー29連勝の新記録を達成した瞬間も盤側で見ることができた。

 観戦記は対局の解説が中心だ。大事なのは一局の流れで、どこで差がついたのかを丁寧に記す。形勢の動きは論理的で、ミスをしたから悪くなる。その記述を一つでも間違えたら成立しなくなるので、論理学の文章のような側面もあるのだ。

 ずっと観戦記を書いているので、理論や理屈はもういいよ、という気分かもしれない。著者が「オレがこう思うからこうなんだ」と感覚を前面に押し出す本を読みたくなる。となると、音楽評論家の許光俊が書いた『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書)を手に取るだろう。

 許は慶應義塾大学の教授で、過去に何冊ものクラシック本を著してきた。説明は明晰で読みやすい。だが理屈はもういい、感覚だけで書きたい、と著したのが本書だ。クラシックとは豊かな人間のもので、「電車で通勤している人間にクラシックはわからない」という一文を読んだ時には、仰天しつつも得心したものだ。

 許はクラシックのために、毎月のように欧州に赴いた。星付きレストランに通い、コシュ・デュリやセラファンを抜栓する。音楽も食も国それぞれでつながっているという事実を、感覚だけで指摘するのが痛快だ。

 私も仕事以上の情熱でヨーロッパに出かけ、許の書いたことを追体験し、また新たな知見を得たものだ。美食の影響で、体重が0.1トンを超えるとは思わなかったが……。

 この本はすでに絶版で(電子書籍で買える)、それほど売れなかったという。真実とは誰にでも納得できるものではない。私は将棋ファンでない方にも理解できるように観戦記を書いているつもりだが、本当はわかる人だけわかればいい。大切なのは理屈じゃなくて感覚なんだ。そんな突き放した気持ちを抱きつつ、最後の眠りにつくのかもしれない。

週刊朝日  2021年4月30日号