しかし、高級海魚の鮭を醤油にするという発想はこれまでになく、優雅な味を持つ鮭を原料にして醤油が完成したならば、とても上品なうま味を多くの加工食品の味付けに使えるだろう。そしてそれだけでなく天然調味料という、安心安全で健康志向に応えられる発酵調味料になる筈である。水産加工会社も私と全く考えが同じだったので、この研究をさらに進めることで話は進んだのである。そのため私は、大学を退いてもしばしば札幌へ行き、その会社の研究室で鮭醤油の開発を進めていたのであった。

 こうして、その二年後には関係者も驚嘆するほどの美味しい鮭醤油が完成し、それを量産すべく石狩市親船にその加工所、別名「鮭醤油蔵」をつくったのである。何を隠そう、実はその鮭醤油蔵の二階隅にある研究室こそ、私が今いる親船研究室そのものなのである。完成した蔵は実に立派で大きく、ボイラー室、スチーム室が完備し、仕込み蔵の中には巨大な木桶やタンク、発酵液の搾り機や濾過機などが並び、製品の熟成室や貯蔵室もある。

 この鮭の醤油は誠に画期的商品になった。味は実に濃厚で美味しく、コク味も深く、そして優雅な甘みもわずかに付いている。色調は濃い琥珀色で照りがあり、光沢している。その上生臭みなど微塵もない。会社がこの醤油を小瓶に詰めて発売したところ、たちまち売れ始めた。さらには全国各地の食品製造会社に業務用の天然発酵調味料として売り出したところ、自然食品ブームと重なっていた多くの食品メーカーは、このような天然型の発酵調味料を希求していたため、そのタイムリーさからこの方面でも大ヒットしたのであった。当然生産も追いつかないほどの状況となり、この鮭醤油蔵はどんどん整備され、立派なものとなっていった。

 さらに鮭醤油は、この水産加工会社のさまざまな商品に天然調味料の味付けとして大量に使われることともなり、中でもこの鮭醤油をベースに北海道産小麦を使った袋入りの「石狩ラーメン」はこれも大ヒットしている。

 以上のように私は、親船研究室すなわち鮭醤油蔵二階隅にある研究室では、今述べたように鮭醤油を使ったさまざまな商品開発を行っているのであるから、怠慢しているといった心配は無いのである。

こいずみ・たけお 1943年、福島県生まれ。東京農大名誉教授で、専攻は醸造学、発酵学。世界各地の辺境を訪れ、“味覚人飛行物体”の異名をとる文筆家。美味、珍味、不味への飽くなき探究心をいかし、『くさいはうまい』など著書多数。

週刊朝日  2021年2月26日号より抜粋