「裕ちゃんも、日活のスターの典型として作り上げられた人間像に押し込められてきたから、不満があったんでしょう。彼のその感情を刺激しちゃったわけです。スターの仕事ばかりしてるけど、役者の仕事をしなくていいのか。高倉健さんを見なさい。スターだけど、ちゃんと役者の仕事をしてるじゃないか。あんたはどうなのか」

 酔いも手伝って、倉本は、裕次郎にそこまで言ってしまった。裕次郎も自分が撮りたい映画への夢を語った。完全無欠なヒーローではなく、人間的な弱さ、他人への思いやり、そして男の孤独を演じたい──。

 裕次郎も倉本も同世代として、昭和20年代から30年代にかけて公開されたハリウッド映画黄金時代の作品を愛していた。それは二人の「映画の理想」でもあった。

 76年1月、倉本の企画・脚本による、石原プロ初制作の連続刑事ドラマ「大都会―闘いの日々―」(NTV)がスタートした。しかし、石原プロのかじ取りをする小林正彦専務は「映画は娯楽だ」が身上で、それゆえ「大都会PARTII」になるとエンターテインメント志向が強くなり、倉本が理想とする「人間ドラマ」とは反対の方向に向かっていった。
 石原プロのドラマに参加しながら倉本は、裕次郎と語りあった夜のことが忘れられなかった。倉本は裕次郎への追悼文「夏に死す──追想・石原裕次郎」(「文藝春秋」87年9月号)でこう記している。

 《裕次郎に僕は衰えを見ていた。
 無論のことそれは自分自身の衰えを自覚したその上での感情だ。
 我々の世代、我々の青春が静かに音もなく崩れようとしていた。そうしてその中で僕は突然、一つの映画の構想を始めていた》

 それが「船、傾きたり」だった。兄・慎太郎の芥川賞受賞作の映画化「太陽の季節」(56年)の端役でスクリーンデビューをした「太陽族」の若者・裕次郎が、続いて主演デビューを果たした「狂った果実」(56年)の若者たちは、その後、どうなっているのか? それを44歳の裕次郎で描いてみたい。それが倉本のアイデアだった。

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