その晩、小林から再び電話が掛かってきた。「『狂った果実』からスタートする話。映画会社を舞台にした話」についてだった。つまり「船、傾きたり」に、裕次郎は「のっているらしい。とにかくそれをシノプシス(あらすじ)にしてほしい」ということだった。

 そこで、まずは検討用の映画プロットを書くことになり、倉本は改めて裕次郎主演の「船、傾きたり」のプロットを90枚ほどにまとめた。1日半で一挙に書き上げたのである。

 6年前の「船、傾きたり」は、裕次郎の主演デビュー作『狂った果実』の主人公たちの「その後」として描かれていたが、今回は「現在の石原プロモーション」と重なるイメージとなっている。

 小林専務との約束の日。猛吹雪のなか、富良野塾までやってきた小林は、ペラで90枚の「船、傾きたり」を読み、何度かうなずいた。「ありがとう。恩に着る。帰って石原にすぐ見せる」と言って帰京した。それから2日後、小林から「石原がやっぱりもひとつ乗れんらしい。大至急次のをもひとつ書いてくれ」と電話があった。

 今回の取材で、倉本はこう振り返った。

「ぼくは、『大箱』『中箱』『小箱』ってプロットを書くんですよ。この90枚の『船、傾きたり』は『中箱』で、ほとんどシナリオになっています。だから渡哲也、舘ひろしの役も想定して、相当細かいところまで詰めていますね。で、このプロットに裕ちゃんは乗ったんですよ。ただコマサ(小林)が『映画会社が潰れる話なんて縁起でもない!』って、もめにもめてポシャるんです。これは、ぼくもやりたかったなぁ」

 85年3月、「船、傾きたり」に代わる、もう一つの脚本について、裕次郎と話し合いをするために、倉本はハワイに呼ばれた。

 裕次郎は倉本に「役者としての仕事がしたい。じっくり取り組んでみたいんだ」と明るい顔で話をした。「西部警察」は前年の10月22日に最終回を迎えていた。裕次郎は、映画を撮るために、自らテレビ朝日上層部に、番組終了を申し出たのである。「これで映画に専念できる」と裕次郎は意気軒高だった。しかし、その時すでに肝細胞がんに侵されていたのである。

次のページ
裕次郎がやりたいと言った「老人と海」