上野千鶴子さん (c)朝日新聞社
上野千鶴子さん (c)朝日新聞社

 今年4月の東京大学入学式で述べた祝辞が大きな話題を呼んだ上野千鶴子名誉教授。入試での女子差別問題などを訴えた上で、「純粋な知識欲」の在り方を語りかけた。そんな上野イズムの原点ともいえる53年前の寄稿を教育ジャーナリストの小林哲夫氏が発見した。石川県立金沢二水高校新聞1966年1月17日号に掲載された貴重な文章を掲載する。

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私は考えずにはいられない──現在の高校教育に思う
201H 上野千鶴子

 現在の高校の授業は、非常につまらない。これは、教師の教え方のうまい、へたに拘わらぬ。おもしろい授業も皆無という訳ではないが、そうしたものは極めて稀であるか、時に、はなはだしい幻滅を伴なってくる。現に息のつまるような緊急感で聞いた覚えがあるが、その時間の終わりに教師はこう言った─「まあ、これは入試には出ませんから、やらなくてもよいんですがね。興味のある人は、大学へ行ってからやんなさい。」現時点において、うまい教師─すなわち生徒の成績を上げさせる教師、というのは、生徒にいかに公式を一つでもよけい覚えさせるかというテクニックを心得ている教師に他ならない。高校教育は、今や自己の本質を見失なってしまっている。先生がやれと勧める所謂「勉強」の目的が、一般教養であるとか、人間形成であるとか言う、わかったようでわからぬ、お体裁の題目を、私は信じないけれども、高校生活において最も本来的であるべき授業の在り方がかほどに空虚であるならば、高校生活そのものが無意味である。授業、あるいは勉学を離れて、高校生活は存在し得ない。クラブ、生徒会活動も無論大切な意味を持ってはいるが、それは教育の本質から見れば、傍流であって決して主流ではない。授業という、高校生にとって最も本来的であるべきはずの時間を除外して高校生活を語る事は、茶番であり、まやかしだ。にもかかわらず、現実の高校の授業は非常につまらない。私をも含めて、大多数の高校生は、授業中の自己を、少なくとも本来的な在り方であると考えていない。六時間という─はっきり言おう─無為の時間を過した我等は、授業後のクラブ活動こそが己の青春の燃焼だと思い、友人とのダベリングのうちにのみ自身を取り戻す。これを誤まりであるとは言わないが、こうした教育の生み出すものは、人間の意識的生活活動を放棄した亡者ばかりだ。一流会社へ入りたい、そのためには一流大学へ入学しなければならぬ、受験地獄には義憤を感じるが、社会が改たまらぬ限り、一度は通らなければならない関門だ、じたばたしている暇があったら単語の一つも覚えよう─昨今のジャーナリズムはこんなふうに我々を切り捨てる。しかし私は思うのだ。そうした理由で自身を納得させ得るほど、我々は偽善者でも現実家でもない筈だ。受験勉強を、これも人生の試練の一つだと言って正当化する者すらいるが試練というには今の受験勉強─正確に「受験」のための勉強─は、あまりにくだらなすぎるのだ。だとすれば、受験勉強というおよそ意味のないシロモノに、受験生をして耐えさせているものは一体何なのか、それが私には奇妙に思える。

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人間をちっぽけにする教育