「高校教育は学問ではない」上野千鶴子が17歳の時に訴えたこと 寄稿文を発見 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「高校教育は学問ではない」上野千鶴子が17歳の時に訴えたこと 寄稿文を発見

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週刊朝日
上野千鶴子さん (c)朝日新聞社

上野千鶴子さん (c)朝日新聞社

 目的意識の欠陥が問題なのだ。何故自分が勉強しているのか、何故高校へ入ってきたのか、何故大学へ行くのか、そんなふうなことが、ちっともわかっていないのだ。確固たる目的意識さえあれば、単語一つ、公式一つを覚える事が、何ものにもまして意味のあることになるのだ。学問の究極の目的が何であるか、それは私にはわからないけれども、貧しい経験と知識から学問はそれ自身として目的となり得るのではないかと、私は思っている。学問という、一つの理性的、体系的な世界へ眼を見開かせてほしいのである。我々の人間としての純粋な知識欲を刺激してほしいのである。合理的、理性的な思考方法を持つ人間を育成することが教育の目的であり、今教えられている前提条件であるというのなら、それはわかるのである。その前提条件を称して一般教養というのならそれもよかろう。そうでなくて、頭脳の末梢的な鍛練のような今の「勉強」に耐えれる訳はないのだ。初等教育の意義はそこに見出だされるべきではあろうが、高校教育までがその延長であってもらっては困る。合理的、体系的なものの見方とか、考え方というものを育てるためというなら高校教育の段階において、学問の奥行きの、せめて入口だけでものぞかせてはもらえまいか。それであれば、単語を覚えるという散文的な作業すら、精彩を帯びるのだ。今の高校教育は、しかし学問などといえたものではない。あるのは断片的な知識の切り売りと、無意味な叱咤激励ばかりである。中学校を通じて得てきた知識は、高校の段階においてかなり体系的に整理されてきてはいるが、そうした学問的なものへの興味も、中途で挫折し、行き詰まる。文部省のカリキュラムを消化するにのみ急で、生徒の興味とか関心とかは、そうした教育の中で埋没せざるをえない。そんな事をやっている「ヒマ」はないのである。自分が一体何を「教え」ているのか、先生方は御存知なのだろうか。一つの純粋に理性的な学問の世界というもの、事象の合理的体系的な見方というもの、それを先生方が知らない訳はないと思うのだ。知育が学校教育の場でなし得る最大の事である以上、そうした世界への興味を見失なっている事実は、高校教育にとって由々しきことだと思うのである。しかしながら、高校教育が現状を脱するのを阻んでいるものは、一体何であろうか。大学入試という一つの決定的な事実の前では、あらゆる良心的な努力は無効なのだろうか。学歴偏重という社会の悪弊が存続するからか。今日では大学すらも、産業予備軍の姿を呈している。問題は意外に根深いところにあるかもしれない。社会が教育に何を期待しているかということである。

 今日高校で行なわれていることは、我等を容れるにはチッポケすぎるのである。高校教育がこのまま自己を見失なって続けられていくならば、その為にあがなわれる代価の高価さを、私は思わない訳にはいかない。

※週刊朝日2019年9月20日号


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