土谷はその後、プロ野球ヤクルト西武の走塁コーチを務め、晩年まで東京五輪への思いを口にしていたという。マラソンの代表選考には一発で決められない難しさがあり、もめてきた。そのもめる背景に時代が背負った問題があった。

 マラソンが日本初参加のストックホルム五輪から“華”となったのは、日本人でも勝てると踏んだからだ。08年ロンドン五輪を観戦した毎日新聞の相島虚吼はこう記している。

「欧米人の中には日露戦争に於(お)ける日本の強行軍の記事等に見て千二百メートルか八百メートルでは足の長い西洋人が勝つだらうが、二十哩(マイル)以上となれば日本人が勝つであらうと信ずるものがある位である」(大阪毎日新聞)

 その華が最初にもめたのは、24年パリ五輪だった。田代菊之助(中大)は車夫でもあったため、学生たちが反発した。箱根駅伝だけでなく野球もテニスも、スポーツは学生すなわち上流階級のイベントで、田代問題は階級問題だった。

 次は36年ベルリン五輪だ。金メダルを持ち帰る孫基禎は抜群の強さで非の打ちどころがない。問題は同じ朝鮮出身の南昇竜だった。選考会で南が優勝し(2位が孫)、期待された鈴木房重は3位、池中康雄は途中棄権に終わった。ベルリンには上位3人とベテランの塩飽玉男を加えた4人が派遣され、現地で南を外すといううわさがあった。

 これには伏線があった。

 その前の32年ロサンゼルス五輪でも、日本統治下の朝鮮から代表が2人選ばれた。28年アムステルダム五輪代表で実績のある津田晴一郎でメダルを取ろうと、2人をペースメーカーに仕立てる作戦だった。

 差別意識ではなく実力主義だとは宗主国の言い分で、統治下の民心ではない。ベルリンの選考会で朝鮮側は警戒し、超スローペースだったのは南を1位に仕立てる戦術だったかもしれない──。これは植民地問題である。

 戦後も同様で、68年メキシコ五輪がもめた。

 佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原が代表になり、選考レースで君原に2度勝った釆谷義秋が外れた。君原が所属する八幡製鉄(当時)のコーチ、高橋進が執拗(しつよう)に食い下がった。当時は実業団の全盛期で、一方の釆谷は高校教員の一匹おおかみ。高度経済成長下の力関係が影を落とした。

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