大センセイが怪訝に思っていると、おっさん、ジリジリと大センセイの体を押してくる。気味が悪いのでちょっと左へズレると、おっさんもサッと左へズレる。再びジリジリジリジリ……。

 気づくと、ボックス席の真ん前のポジションは、完全におっさんに奪われていた。そして、電車が横浜駅のホームに滑り込んだ瞬間、

「ああっ!」

 おっさん、下車するために腰を浮かせた学生のお尻の下に滑り込むようにして、座席をゲットしてしまったのである。岩の割れ目に逃げ込むタコのような早業だ。

「あんた、セコいなぁ」

 座るやいなや、おっさんは居眠りを始めた。座席からズリ落ちそうになって眠りこけている姿は、温め直したみそ汁の中で煮くたれたワカメの如くである。

 そうだ、大センセイは東海道線初心者なんだ。気を取り直して再びボックス席の前に立った。すると今度は、大きなカバンをふたつぶら下げた中年女性が隣に立った。

 電車が川崎駅のホームに滑り込む。大センセイ、揺れる電車で立ち続けてもうヘトヘトだ。これから取材なんて信じられない。ボックス席のひとりが席を立つ。隣の中年女性と目が合った。

「どうぞ」

 先に彼女が言った。

 咄嗟に、

「僕はすぐ降りるんで」

 と答えていた。

 たしかに辛かったけれど、だからといって煮くたれたワカメにはなりたくない。ここは男らしく、女性に順番を譲ろう。

 男らしく……。

 あのフェミニストの部長が聞いたら、なんて言うだろうか。

週刊朝日  2019年7月19日号

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山田清機

山田清機

山田清機(やまだ・せいき)/ノンフィクション作家。1963年生まれ。早稲田大学卒業。鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(第13回新潮ドキュメント賞候補)、『東京湾岸畸人伝』。SNSでは「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれている

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