アルバムのテーマは“喪失”。本人は“ダークな響きをもたらすように思えるかもしれませんが、私は一種の光だと考えています。浮ついた軽さではなく、深い感情を持ち、高揚感を覚えさせるものだと思います”と語る。

 ハイライトは2曲。その一つが冒頭を飾る「Young Adult」。軽快なピアノで始まり、エレクトロ的なSEが入るポップな展開。イナラの甘い歌声もいい。もう1曲は「Release Me」。ピアノとオルガンによるサザン・ソウル的な3連のスロー・ナンバーで、感情のこもった歌いぶりが印象深い。

 その2曲とも、父ローウェルのことを歌っている。前者では、幼い頃に父を亡くした喪失感、音楽活動を始めて以来、“ローウェルの娘”と語られ続けたという事実を背景に、年を重ねて自分自身のことを語れるようになった今を歌っている。後者は、父の死後、母が抱いていた父への思いを歌にした。パーソナルな内容だけに録音を控えるつもりが、制作のマイクの勧めもあって取り組んだという。

「Slow Dance」は、40歳の誕生日に年下の若い男と踊ったときに思い出したほろ苦い過去をテーマにした曲。夫や幼い子をなくし、流産した友人に捧げる歌もある。

 ピアノとベースだけをバックにした「Take Me To Paris」は、しっとりとした情感に富んだ歌いぶり。ラヴ・アフェアーの歌かと思いきや、子どものころからの知り合いの女友だちとパリに旅した経験を歌にしたという。

 喜びも悲しみも紙一重。明日には何が起こるかもわからない人生模様を受け止め、ポジティヴに生きていたい――本作からはそうしたイナラの思いが伝わってくる。

 ボーナス・トラック2曲は、フランク&ナンシー・シナトラで知られる「恋のひとこと」、プリンスの「Condition of the Heart」のカヴァー。これも聴き逃せない。(音楽評論家・小倉エージ)

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小倉エージ

小倉エージ

小倉エージ(おぐら・えーじ)/1946年、神戸市生まれ。音楽評論家。洋邦問わずポピュラーミュージックに詳しい。69年URCレコードに勤務。音楽雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン(現・ミュージックマガジン)」の創刊にも携わった。文化庁の芸術祭、芸術選奨の審査員を担当

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