<(ペンシルベニア州のある町での対話相手のような)善人で、優しくて、落ち着いた人が、米軍を支援するとなると、どうしてこれほど残酷になれるのか。なぜ彼女は、神の名の下に酷い暴力を浴びせることに慣れさせられた兵士たちが、世界中の多くの家族を破滅させてきたということが見えないのか>

 と書き、すなわち凄まじい倫理観と正論を示す。

 が、それだけではない。そこが本書の魅力なのではない。しばしば微視的になってしまうディンの姿勢、そこにこそ真の魅惑はあって、なにしろ低所得者たちの現状を知るために(というのは口実かもしれないが)著者ディンはあの町の安いバー、この町の安いバーに寄り、そしてひたすらビール、ビール、ビールを呑んで、それぞれの銘柄の値段を報告し、それを「呑んでいる人たち」を描出する。彼らの人柄、すなわち魅力そのものとともに。

 どうしてそんなことができるのか、といえば、そこが俺の居場所だ、とディンが思っているからだ。

 その圧倒的な力強さ。

 そこから、圧倒的多弁、要するに躁状態の口数が生じて、いや、もう、語る語る語る。ほとんどその言葉数は劇薬だ。毒舌があり、愛がある。そうした「相反するもの」を両立させうるのは、たぶん詩人としての資質、また小説家の資質があるゆえ、だ。

 そうして、この圧倒的なルポルタージュまたはアメリカ横断・徘徊記は、しかし序文(「日本の読者へ」)で今はベトナムに戻っていると記され、つまり「俺は俺の居場所を喪失した」と宣言することで、強靱なパワーと悲しみをもって、より読み手の胸に迫る。もしかしたら「胸に」よりも「そばに」かもしれない。リン・ディンは、あなたのそばに座り、きっとビールを呑み出そうとする。

週刊朝日  2019年1月25日号