もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。昭和から平成と時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は俳優の岸部一徳さんです。どこか一歩引いたような、独自の存在感を放つ名優の源流をさかのぼると、あの「ザ・タイガース」に行きつくといいます。
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僕はたまたま沢田研二の横でベースを弾き、彼のスター性みたいなものを真横で見てきたんです。彼が一番きれいで、輝いていて、みんなが「ジュリー!」って熱狂する過程をずっと見てきた。
知らないうちに「見る」ポジションが好きになってきたんでしょうね。自分がど真ん中に立って何かをする、ということにはそんなに興味がないんです。
俳優の世界でも「脇で主役を支える」のが嫌いじゃない。それは「ザ・タイガース」のときに始まっていたのかもしれない。
――1966年、岸部がベーシストを務めるバンドは「歌がうまいやつがいる」と評判だった沢田研二を誘い、京都から大阪に活動拠点を移した。さらに、内田裕也が「東京に来ないか」と声をかけ、バンドは翌年「ザ・タイガース」としてデビュー。一世を風靡した。
音楽は18歳のころ、当時の仲間と本当に遊びみたいに始まったんです。沢田研二が入らなければ、4人でただただダンスパーティーをやって、それで終わっていたかもしれないですよね。
グループのなかで方向性の違いや、ケンカはしょっちゅうでした。いまの人はどうだかわからないですけど、昔は平気でケンカしたり、「あいつは嫌いだ」ってことを言いながら、それでもステージはちゃんとやるんです。
ギターの加橋かつみが辞めたあとに、僕の弟の岸部四郎が入って。弟にとってはこの人生の岐路は大きかったでしょうね。京都でウロウロしていた男が、いきなりザ・タイガースみたいなところに入れられて、解散してからも音楽をやって、タレントや司会者になって。