■ルイ・パスツールとロベルト・コッホ、偉大な2人の英雄

 このアルコール発酵のメカニズムを解明したのが、フランスの微生物学のパイオニア、「ルイ・パスツール(1822-1895)」だ。パスツールにはライバルがいた。ドイツの細菌学者、「ロベルト・コッホ(1843-1910)」 である。ふたりは微生物学の基礎を築いた偉大な両雄だ。

 ちなみに、コッホは1905年に結核菌の研究成果を受けてノーベル医学生理学賞を受賞した。一方、パスツールのほうは受賞していない。これはノーベル賞授与が始まった1901年時点で、パスツールがすでに故人となっていたからだろうと思う。原則として、生きていないとノーベル賞は受賞できないのだ。

 では、どのようにしてパスツールはアルコール発酵の解明に至ったのか。

 微生物の存在が知られたのは、オランダの「アントニ・ファン・レーウェンフック(1632-1723)」が顕微鏡を発明してからのこと。それまでは、微生物の存在自体が人間には知られていなかった。当然、人々は微生物が行う「発酵」の存在も知らなかった。

 古代ギリシャの「アリストテレス(BC384-BC322)」は、糖を含んだ液体(ブドウ果汁)が、時間がたつとどうしてアルコールになるのかを考え、ブドウには「活力(vis viva)」があり、特定の目的に向かって生命力がそのような作用を駆り立てるためだと考えた。ブドウ果汁は成熟してワインに「なりたがる」というわけだ。

 アリストテレスには、このような「何にでも目的がある」といった目的論が多いようで、物理学者の「スティーブン・ワインバーグ(1933-)」はアリストテレスのこうした「目的論的なものの見方は科学的でない」と批判している(ワインバーグ『科学の発見』)。

 アリストテレスというと森羅万象、どんなことにも精通した人で、自然科学、哲学などいろいろな領域に関する著作を残している。英語で「Aristotle」といえば「なんでも分かる天才」の例えだ。

■「ひと」で化学を斬るのは不可能。ヒトは間違ったりするのだから

 しかし、賢人といっても何千年も前の人である。アリストテレスの言っていることが、後年の科学的見地からは間違っていたとしても全く驚きではない。もちろん、そういう誤謬(ごびゅう)があること自体、アリストテレスの価値をおとしめるものではまったくないのだけれども。

 しかし、一部の人々は妙にアリストテレスを神格化してしまい、彼の批判を全く許さない、みたいな雰囲気がどこかにあるような気がする。

 特に人文科学の世界では「こと」よりも「ひと」に注目しすぎて、歴史上の哲学者や経済学者を「ひと」的に評価することがときどきある。例えば「カント哲学」とか「ケインズ経済学」みたいに。これっておかしいと思う。ヒトは正しかったり間違ったりするのだから、ある人物をまとめて論ずるなんてナンセンスだとぼくは思う。

 アインシュタインのような例外はあるが、自然科学の世界では「パスツール微生物学」みたいな言い方はほとんどしない。

「ひと」で科学を斬るのは不可能だ。「専門はパスツールです」という微生物学者もいない。医学史の専門家でもなければ、そういう斬り方はしない。この話はもう少し続く。

◯岩田健太郎(いわた・けんたろう)/1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現島根大学)卒業。神戸大学医学研究科感染治療学分野教授、神戸大学医学部附属病院感染症内科診療科長。専門は感染症など。微生物から派生して発酵、さらにはワインへ、というのはただの言い訳なワイン・ラバー。日本ソムリエ協会認定シニア・ワインエキスパート。共著に『もやしもんと感染症屋の気になる菌辞典』など。

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岩田健太郎

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岩田健太郎(いわた・けんたろう)/1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現島根大学)卒業。神戸大学医学研究科感染治療学分野教授、神戸大学医学部附属病院感染症内科診療科長。沖縄、米国、中国などでの勤務を経て現職。専門は感染症など。微生物から派生して発酵、さらにはワインへ、というのはただの言い訳なワイン・ラバー。日本ソムリエ協会認定シニア・ワインエキスパート。共著にもやしもんと感染症屋の気になる菌辞典など

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