平成の時代があと半年で終わりを告げる。皇室取材を30年続けてきた、朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、皇室の「楽屋裏」から見た秘話を通じて、平成皇室の姿を語る。
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──岩井さんが宮内庁担当となったのは1986(昭和61)年でした。
そうです。皇居の守りを固める最大の門である坂下門を閉門時刻を過ぎて出入りする際には、皇宮護衛官が2人がかりで太いかんぬきを外し、全体重をかけて巨大な扉を開けてくれます。「江戸城開門」を実感するこの場所は、1862(文久2)年1月、開国を進める幕府の老中安藤信正を水戸藩士らが襲った「坂下門外の変」の舞台でした。1945(昭和20)年8月15日。玉音盤を奪い降伏を阻止しようと近衛歩兵を率いて乱入した青年将校が切腹したのも、このそばです。
86年の夏、初めて取材した国賓の歓迎晩餐(ばんさん)会。宮殿の豊明殿で昭和天皇と皇族方がずらりと並ぶなか、シャンデリアに照らされた高松宮宣仁親王殿下の頬がげっそりとこけて痩せておられるのに気づいた。
皇室の取材においては、天皇、皇后両陛下の私生活を支える侍従や侍医らへの取材は欠かせません。すぐに、肺がんだとつかめた。しかし秋には、他社も気づきはじめ、普段は誰も取材しなかった殿下の公務にわんさか記者が群がるようになってしまった。ご本人は苦笑いしておられましたが、痛々しかったですね。
翌87(昭和62)年2月に逝去されると、いろいろと問題が持ち上がりました。皇族の葬儀は53(昭和28)年の秩父宮以来34年ぶり。役人も記者も経験者がほとんどいない。双方が手探りでしたね。土日はガラガラで当直しかいない役所ですが、ある日曜日に幹部連中がひそかに集合していた。せわしげに打ち合わせに動きまわる幹部を捕まえて、「何事ですか」と迫った。しぶしぶ答えてくれたのは、「シルクハットに喪章を巻くやり方がわからない」。元内舎人(うどねり)に知っている人がいたから、ようやく解決した、と。とんでもない役所だと思ったのを覚えています。