東京から約1千キロの南、美しい海に囲まれた30あまりの島々からなる小笠原諸島。“東洋のガラパゴス”と言われる独自の生態系を持ち、豊かな自然にあふれた亜熱帯の島々は、世界自然遺産に登録されている。その小笠原は戦後23年間、米国の統治下に置かれ、日本に返還されたのが1968年6月26日。返還50年を迎える今、その歴史と変化を振り返る。

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「返還前は二百数名の欧米系島民と米軍の40名ほどが、静かに暮らしていた。返還が決まり、都営住宅の建設や道路の整備が急ピッチで始まったのを覚えています」

 当時、小学5年生だったセーボレー孝さんはそう語る。最初の入植者のひとりで父島植民政府の長官を務めたナサニエル・セーボレー氏の子孫で、5代目にあたる。返還の前後を知る貴重な存在だ。

「私たち欧米系の島民は終戦1年後に帰島を許されましたが、日系の旧島民にとっては24年ぶり、待ちに待った返還だったと思います」

 返還に伴う変化で、子どもだったセーボレーさんにとって大きかったのは、学校教育だった。

「それまで文章も英語で書いていたのに、日本語の単語をひとつひとつ習うんです。なぜいまさら新たに学ばなければいけないのかという抵抗感はありました。もちろん、次第に学ぶことの大切さに気づきましたけど」

 欧米系の島民も全員、日本国籍を取得しており、意識としては日本人。家庭ではみな日本語を話していたという。だが、米国統治時代の学校では日本語が禁止されていたため、子どもたちは読み書きができなかったそうだ。

 小笠原は、船とともに変化してきた、とセーボレーさんは語る。

「外部との接点は、常に船でしたから。米国統治時代は貨物船で、南のグアムやサイパンとつながっていた。返還とともに、今度は北の東京と、人の行き来や物資の運搬が始まった。最初は小さな船で2泊しなければならなかったのが、いまは24時間で着く。船が大きくなるとともに、人の出入りが増え、店ができ、民宿ができて……」

 かつてはテレビもラジオも電波が入らず、電話もつながるまでに1時間待たされたというが、今では本土とほぼ同じ通信状況になった。そんななか、50年を経ても変わらないのが、美しい自然と海だ。

「自然を愛する人々が集まり、守っていこうとする姿勢は、何年経とうとも変わらない。返還後も、島の自然を守るためにさまざまな自主ルールをつくって観光客を迎えています。一国の首都にある世界自然遺産は小笠原だけでしょう。時間はかかりますが、自然を満喫できますよ」とセーボレーさん。

 だが、何よりの魅力は、人々があたたかく迎えてくれることだろう。数奇な運命をたどった島だからこそ育まれた豊かさかもしれない。(取材・構成/本誌・伏見美雪)

週刊朝日  2018年7月6日号