約3年前には吉田さんの米寿を祝う会が東京で開かれ、平和運動の関係者ら約60人が全国から駆けつけた=2014年11月
約3年前には吉田さんの米寿を祝う会が東京で開かれ、平和運動の関係者ら約60人が全国から駆けつけた=2014年11月
国連に核兵器禁止の要請書を手渡す吉田さん=1974年、米ニューヨーク(森賢一さん提供)
国連に核兵器禁止の要請書を手渡す吉田さん=1974年、米ニューヨーク(森賢一さん提供)

 米国のビキニ水爆実験(1954年)をきっかけに広まった原水爆禁止運動。その礎を築いた一人、吉田嘉清さんが亡くなった。「平和運動家」としての人生をまっとうした。

【写真】国連に核兵器禁止の要請書を手渡す吉田さん

「戦後の日本を彩った平和運動の一時代の終息を告げるかのような訃報だ」

 亡くなったと聞いたとき、そうした感慨が脳裏を駆けめぐった。3月21日に死去、92歳だった。「戦後平和運動における最大のヒーロー」と言われたその生涯は、ひたすら原水爆禁止運動の大衆化とその統一のためにささげられたと言ってよい。

 1926年に本県で生まれた。44年、早稲田大学高等師範部に入学、そこから法学部へ。戦後は全日本学生自治会総連合(全学連)の創立にかかわり、早大自治会委員長に就く。

 50年に朝鮮戦争が勃発し、GHQ(連合国軍総司令部)の指令で政府がレッドパージ(共産主義者の公職または民間企業からの追放)を始めると、早大でもレッドパージ反対闘争が起こる。反対闘争を理由とした学生の処分に反対する学生たちが学部長会議に乱入、警官隊との衝突で143人が逮捕される。吉田さんはそのリーダーとされ、退学処分となった。

 54年、ビキニ被災事件が起こる。太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で静岡県のマグロ漁船・第五福竜丸が被ばく、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死亡した事件だ。原水爆禁止署名が国民的規模の盛り上がりをみせる中で55年夏、原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、これを機に原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成される。吉田さんはその事務局常任となった。

 63年には原水協から社会党・総評系が脱退し、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成。原水協に残った吉田さんは事務局長に就く。エネルギッシュな活動、とりわけその巧みな弁舌から「原水協の顔」と言われるようになり、その気さくな人柄から「カセイさん」の名で親しまれた。

 同年以降、原水協と原水禁の対立抗争が続くが、77年に協、禁に市民団体を加えた広範な共闘が成立すると、吉田さんは3団体共闘の推進に力を注ぐ。原水禁運動の統一は国民に歓迎され、運動は空前の高揚を迎える。

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