「ひょっとしてニセモノの可能性もあるかなと思いましたが、森井さんに見せていただき、本物だと確信して、入手することに決めました。6月初めのことです。まずは『竜馬』の最後の一行を目で追いました。自分の動悸(どうき)が聞こえるようでしたね」

 坂本竜馬が中岡慎太郎とともに暗殺される場面で、

<天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした>

 と、ファン必泣の一行である。

「最初は『惜しむように』と書いたのを『惜しげもなく』と書き直しています。筆跡は力強かったです」

『坂の上の雲』の冒頭部分もあまりにも有名だ。

<まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている>

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」、渡辺謙のナレーションが蘇(よみがえ)ってくる。

「『坂の上の雲』の原稿の大半は、日本近代文学館に寄贈されていますが、この書き出しの部分と、『日清戦争』の一部はありませんでした。書き出しから十数行は、『竜馬』と違って、ほとんど書き直しがありません。頭のなかですでに文章ができあがっていたんでしょう。この作品にかける気迫を感じましたね。この部分については、出版社が展覧会を開くときに頼まれ、わざわざもういちど書き直したことがあったぐらいです。長編を象徴する部分が出てきただけに、ほっとしました」

『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も産経新聞に連載された小説。上村さん自身も司馬さんと同じく、産経新聞社に勤務していた。

「勤務していたころに、編集局で原稿を捜したこともありますし、先輩たちにも聞きましたが、見つかることはありませんでした」

 どういういきさつで神田に現れたかについてはわからないそうだ。

「原稿には『要返却』と司馬遼太郎とは別の字で書かれています。当時の編集にかかわった誰かが、司馬遼太郎の了解の元で保管というか、保存していたのではないかとは思いますね。『竜馬』のころはコピーもなかった時代ですし、1カ月ほどは編集局に保存されていたでしょうが、他の一般原稿と一緒に廃棄されていたようです。ただ、『要返却』と書いてくれたので、これだけ戻ってきた。その後の流れを詮索(せんさく)するより、出てきたことを喜びたいと思っています。大事に持っていてくれた人に感謝ですね」

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